新世紀へようこそ 099
戦争は終わった?
サダム・フセインの政権は組織的な戦闘を停止しました(というよりは消えてしまったらしい)。テレビと新聞を見ているかぎり、戦争はアメリカとイギリスの勝利に終わったように見えます。
ジャンケンから核戦争まで、すべての戦い、すべての勝負に共通する原理があります──すなわち「勝つことは快感である」。
勝つことが快感だから、勝った側はファンを増やすことができる。勝利の快感のおすそわけに預かろうという人々が日和見の立場から一歩前に出て、勝ちチームに拍手を送る。そのため、戦いは結果論になりがちです。
勝てば官軍。侵攻した異国の軍隊でさえ、官軍になってしまう。
実際には、今イラクで起こっているのは一つの安定した社会組織の崩壊という現象です。
国というものに求められる最も基本的な機能は、国民が暮らすための基盤を用意すること。水と食糧と安全が行き渡り、人々が安楽にその日その日を送れるためのシステムを作って維持する。それが政府と官僚たちの最も大事な任務です。ぼくが見たかぎり、去年の11月にはイラクの社会は安定していました。普通の人々は普通に暮らしていました。
サダム・フセインの政権には問題があっただろうけれど、しかし全体としてイラクは暮らしやすい国に見えた。
地方都市の小さなレストランでうまい料理が食べられた。大人は客を歓迎し、子供たちは笑いながら街路を走り回っていた。
戦闘は終わり、アメリカとイギリスは勝ち組になりました。
これからは、消滅したサダム・フセイン政権に対する不満の声がイラク国内からも報じられるでしょう。負けた者は批判しやすいし、尻馬に乗る者も出る。
それが勝ち組効果というものです。
イラクの社会にはさまざまな問題があったかもしれない。政治に不満を抱く人がいたかもしれない。だが、それはまずもってその国の問題です。主権国家の政治的課題を解決するのはその国の国民の責務です。
他の国がそれを目的に武力を用いるというのは欺瞞でしかないし、常識的にはこの種の行為は侵略と呼ばれます。
話を最初に戻せば、今回の戦争のはじまりはイラクと9・11のテロリストの結びつきでした。しかしこれはどうやっても証明できなかった。イラクとアルカイダは無関係でした。
次に大量破壊兵器をイラクが持っているのではないかという疑惑が正面に出てきた。イラクがそれを他の国に向けて使うという事態が一方的に想定され、被害を防ぐためと称して先制攻撃が企画された。
疑惑は査察で解決できます。少なくとも国連に加盟する大半の国は査察の実効性を認めていた。
イラクは査察に協力し、制限を超える能力を持ったミサイルの廃棄にも応じた。
にも関わらずアメリカとイギリスは順調に進んでいた査察を中断させて、武力行使を開始した。
ミサイルについて言えば、「銃を捨てろ」と言って、すなおに銃を捨てた相手を撃った、ということになります。
大量破壊兵器は今もって見つかっていません。
というよりも、イラクが大量破壊兵器を持っていたか否かはもう問題ではなくなった。
なぜならば、今後アメリカ側がイラクの国内で何を見つけたと言っても、アメリカ軍とイギリス軍が大量の軍需物資と共にイラク国内に侵攻した後では、その報告には何の信憑性もないから。彼ら自身が持ち込んだ疑惑がどこまでもついてまわるから。
中立を保つ国連の査察団だからこそ、調査報告に意味があったのです。
査察の結果を待っていると、暑い季節になって戦争ができなくなる。そこで、次の理由として、サダム・フセインの圧政からイラク国民を解放するという欺瞞が登場しました。
それに、査察が順調に進めば、戦争の必要がなくなってしまう。
ともかく、何がなんでも戦争がしたい。理由などどうでもいいし、勝ってしまえば反対の声など消えるだろう。
これがブッシュ政権の本音だったようです。
勝ち組の嘘は通りやすい。
ミサイルで市場を撃って民間人をたくさん殺した後で、そのミサイルはイラク側が撃ったものだと言い抜けようとする。
ミサイルの破片にアメリカ製を示すコードがついていてもまだ認めない。アメリカの戦闘機がこれを発射したという記録もあるのですが。
あるいは、ジャーナリストが使っているホテルを戦車砲で攻撃して死者を出した。撃たれたから撃ったとアメリカ側は弁明したけれど、現場にいたジャーナリストたちはそんな事実はないと言っています。
これは意図的な報道妨害です。アメリカは見られては困ることをあのカメラの前でしようとしていた。だからジャーナリストを殺した。
残念ながらアルジャジーラはバグダッド支局から記者を引き上げました。戦車砲に立ち向かえるジャーナリストはいません。
しかし、アラブ全域に深い恨みは残るでしょう。
あらためて現実を直視してみれば、アフガニスタンとイラクで証明されたのは、少なくとも武力においてはアメリカは圧倒的に強いという事実です。
戦争には大義の貫徹と人命や資産の消費という矛盾する二つの側面があります。
大量殺戮に近い一方的な戦闘経過を見れば、イラク側が抵抗を放棄したのは、あるいは賢明だったのかもしれません。
武力においてはアメリカは強かった。
アメリカ政府は今回も武力のみに依存した。世界の人々の声を無視し、国際法を無視し、国連を無視して、ひたすら武力に頼った。勝ってしまえばすべては正当化される。
言い換えれば、負けたのはイラクではない。
言葉と武器の戦いにおいて、今回は言葉が負けた。
なんとかこの戦争を始めさせないようにと努力してきたぼくたちは徒労感に襲われがちです。あんなにがんばったのに、戦争ではない方法でイラクの問題を解決しようとしたのに、戦車の前進を止められなかった。子供たちを含むたくさんの死者を出した。
落胆するのは当然とも言えます。
しかし、ぼくはここに書いたほど広い意味で「ぼくたち」という言葉を使ったことがありません。
今、この世界でイラクからの報道に接することができる世界の人々の大半、国連に加盟する各国政府の多く、ジャーナリストと知識人たちの大半が、この「ぼくたち」に含まれます。
武器ではなく言葉に頼る人々が武力ではない解決法を提案し、支持してきたのです。一千万人のデモを実現してきたのです。
武力がことを決める世界にはしたくないと表明してきたのです。
これからは勝ちに乗じた嘘の言葉が彼らの武器になるでしょう。これに向けた言葉を「ぼくたち」は用意しなければなりません。
銃ではなく論理がことを決める世界のために、もう一度最初から、言葉の準備をはじめなければならない。
戦争は終わった?
実は何も終わっていない。武力と言葉の戦いは終わっていません。
イラク国内は混乱し、秩序が乱れ、食料と水と安全の確保がむずかしくなるでしょう。
サダム・フセインに背を向けて国外に出たイラク人の中に、今後のイラクを指導できる人材がいるとは思えません。パーレビが去ってホメイニが戻ったイラン革命のような展開はとても期待できない。
今のアフガニスタンのような軍閥の抗争ということにもなりかねない。外からの武力が社会秩序の軸を引き抜いてしまったのですから、あとは混乱が残るばかり。
メディアを通して流された戦闘終結のニュースにはまだまだ疑いの余地があります。
終わったといえば、世界の関心は他に向かう。アフガニスタンで起こったことです。
だから終わったことにしておいて、メディアがいないところでしたい放題をする。今の段階での幕引きにはどうもそういう意図が見えます。
ここで目を放してはいけない。
この先イラクで起きることをしっかりと見続けること、まだわれわれはイラクに強い関心を持っていると表明し続けることが、大事です。
(池澤夏樹 2003−04−13)