【ねこまたぎ通信】

Σ(゜◇゜;)  たちぶく~~ Σ(゜◇゜;)

ぷぷぷぷっ

ここ数日イラクの戦況に関する報道ががくんと減少したような気がします.で,大本営発表が少なくなると,こんな記事が,続々と届いています.(笑)

「解放された」地で、メディア抑圧

  Media Repression in 'Liberated' Land
  インター・プレス・サービス(IPS)  Dahr Jamail
http://ipsnews.net/interna.asp?idnews=26333

 バグダッド発、11月18日

 イラクでは、米国に任命された暫定政府によって脅され、拘束されるジャーナリストが増えている。メディアは、特に最近のファルージャにおける恐ろしいできごとを報道することを止めてしまった。
 米国の前イラク統治者ポール・ブレマーによって書かれた「100の指令」には、イラクの通信およびメディア委員会を設立するための、3月20日に通過した指令65号が含まれている。この委員会はメディアを支配する力を持っている。というのは、通信、放送、情報サービス、その他すべてのメディアの創設を規制し、許可を与える完全な権限を持っているからだ。
 アメリカが「独立した主権者」とみなしてイラク暫定政府に権力を渡した6月28日、それまで長期にわたってイギリスの諜報機関MI6およびCIAとつながりを持ってきたアラウィ暫定首相に、ブレマーは単純に権限を渡した。
 顕著な例がカタールに本拠を置く衛星TVアルジャジーラへの制限である。
 この夏、イラク暫定政府に権力が「委譲」された数日のあいだに、アルジャジーラバグダッド支局は暫定政府が派遣した治安部隊に襲われ閉鎖された。このテレビ局は不正確な報道をおこなったと告発され、最初は1ヶ月間、イラクからの報道を禁止された。
 その報道禁止はその後、「無制限」に延長された。今週の火曜日(11月16日)、イラクで活動していることが認められたアルジャジーラ記者は誰であれ拘束されるだろう、と暫定政府が発表した。
 アルジャジーラバグダッド支局は、昨年3月のイラク侵攻では米軍機によって爆撃された。このテレビ局はそのような事故を避けるために、米国防総省ペンタゴンに支局の正確な位置を知らせていた。同支局の記者一人が爆撃で死亡した。
 アルジャジーラは今、「暫定政府からの命令で3ヶ月以上に渡って支局が閉鎖されているために、イラクのニュースを伝えられない」ことを謝罪している。
 他にも政治的な抑圧の例は多い。メディア委員会は最近、一つの指令を出し、ニュース各社は「米軍のファルージャ攻撃に関しては政府の方針に忠実に、合法的な活動をするように」と要請した。この警告はアラウィの頭書(とうしょ)入りで届けられた。
 この書簡はまた、メディアに対して、「貴社の報道に、大多数のイラク国民の意向を表明するイラク政府の見解を載せるスペースをとっておく」ことを要請した。
 先週、アルアラビヤ(衛星テレビ:訳注)の記者がファルージャの外で米軍に拘束された。記者は包囲された都市に入ろうとしていた。
 別のアルアラビヤ特派員からの情報をもとに、アメリカに本部を置くジャーナリスト保護委員会(CPJ)は、アラビア語の衛星テレビ局が11月11日、スンニ派モスレムの都市に住んで働いている記者兼写真家のアブデル・カデル・サアディと連絡をとれなくなったと発表した。
 フリーランスのフランス人写真家コレンティン・フリュワリは、ファルージャ包囲が始まる直前にファルージャを離れる途中で、28歳の通訳バハクティヤ・アブドッラー・ハダドとともに米軍に拘束された。
 彼らは包囲に先だつ9日間、市内で仕事をし、市外の米軍収容施設に5日間拘束された。
 彼はIPS(インター・プレス・サービス)に、「米軍はひじょうに神経質になっており、私たちが見たことについて尋問し、全部の写真に目を通して、それについて私に質問した」と話した。「彼らは武器がどこにあるか、住宅街の様子はどうかと尋問した」。
 フリュワリは、包囲に先だつ市内の生活と、米軍機に破壊された民家の写真を撮ってきたのだと話した。
 「彼らはファルージャの状況に関する情報を私から得ようとしたのに、まだ私の通訳は釈放されないでいる」と彼は言った。「愚かなことに、私は狙撃用ライフルを手にする彼の写真を1枚撮った。そのことが米軍が通訳を拘留している理由になっていると思う。ここ5日間、彼に関する情報を得ようと努力し、フランス大使館も彼を出させようと尽力し、彼と一緒に仕事をしたことのある別のジャーナリストも書簡を送った。しかし今までのところ良い知らせはない。

どんな戦況かというと,

http://www.albasrah.net/moqawama/english/1104/iraqiresistancereport_261104.htm
26日夜、ファルージャ包囲の米軍を弾幕が襲う
Friday night barrage pounds US siege troops around al-Fallujah.

 イスラム・メモの通信員は、ファルージャイラクレジスタンス勢力が市を取り囲む米軍の集結地に40発以上のカチューシャ、タリク、グラッドの各ロケットを発射したと伝えてきた。
 この攻撃は、特に市の西方および南方、そして鉄道周辺に集結する米軍を標的にしていたと通信員が報告した。市の西方に引き下がった米軍は砲撃を免れた。
 レジスタンスの砲撃は、イスラム・メモ通信員が26日夜8時25分にレポートを届けた時刻にもまだ続行中だった。
 一方、市内・外にいるイラクレジスタンスの情報提供者は、米軍の損害は500台の車両が破壊されるに及んだと述べた。そのなかには軽車両はもちろん、中型、大型の車両も含まれている。種類も戦闘車両、ハンビー、装甲付き兵員輸送車などさまざまである。

レジスタンスが4度目の包囲網突破/旧市街を取り戻す
Fourth major Resistance breakthrough:Resistance seizes back al-Fallujah’s Old City.

 26日夜9時30分(メッカ時間)に届いた速報で、イスラム・メモ通信員は、ファルージャレジスタンス戦士は26日の昼間に米軍の包囲網を突破して、レジスタンスが取り返したファルージャ中心部の旧市街に入ったと伝えてきた。
 通信員は、26日午後1時頃にレジスタンスが市内へと突破したあと、激しい戦闘が勃発し、午後4時頃まで続いたと報じた。米軍はレジスタンス部隊に迫撃砲を放ち、空からはミサイルとクラスター爆弾で攻撃した。
 26日の米軍包囲網突破は、現在のファルージャ包囲が始まってから4度目のことである。10日ばかり前、市の東部で包囲網を突破し、その後、5日前にはワフダ地区への突破があり、3日前には市外のレジスタンス勢力がアズラキヤ地区西部の米軍包囲網を突破してジョラン地区に入った。それでも、旧市街に達した26日の米軍包囲の突破は、市の中心部へ到達した初めてのケースである。それは大きなモスクが建つ古くからの市街地にある。
 レジスタンスは新旧の橋にある米軍指揮所を狙った60ミリ迫撃砲の発射で攻撃の火ぶたを切った。この攻撃はアメリカ軍を後方に退却させ、同時に、市内西部の広い地域から引き揚げさせた。
 26日の包囲網突破の成功について、イスラム・メモ通信員は3点の特徴を指摘した。
 第一点は、レジスタンス戦士と米侵略兵との地上戦はおこなわれず、そのことはレジスタンス側が実際にこの地域を掌握したことを意味している。
 第二点は、米軍は旧市街を守るのに空襲と迫撃砲に依存するだけだったことで、このことは米軍は市内に地上部隊を配置してないという意味である。
 第三点は、レジスタンスがファルージャの心臓部にあたる旧市街に(市の外から米軍の包囲網を破って)到達したことであり、米占領軍は地上部隊による抵抗をしなかったことである。

ファルージャから初めて米軍が退却
First US withdrawals from al-Fallujah reported

 26日午後9時に届いた速報において、イスラム・メモ通信員は、ファルージャを包囲する米軍が同日、レジスタンス勢からのグラッド、タリクによるロケット攻撃にさらされたと伝えてきた。
 イスラム・メモは、この砲撃を受けて、米軍は包囲網の西側の部分にあたる複数の部隊をハバニヤ基地の方角へ退却させた、と報告した。
 26日午後、多数の戦闘車両がレジスタンスと交戦することなく、ハバニヤの方角へ退却した。
 数週間前に包囲が始まって以降、ファルージャを囲む包囲網から一部であれ米軍が退却するのは初めてのことである。また米軍は、市の西にある新・旧の橋に設置していた検問所も撤退させた。市の北部にある米軍指揮所の一つも撤退したが、それはイラクレジスタンスの砲撃にさらされるようになったあとのことである。
 これらの戦局の進展はファルージャを包囲する米軍が弱っていることを示すもので、レジスタンスを排除することに失敗したことで、一種のショック状態にある。実際に、この3日間ばかりは、レジスタンス側は本来の力を取り戻して掌握する地域を広げ、その結果、ファルージャの65%はレジスタンスが支配するようになっている。
 米軍が弱っていることは、市の外にいるレジスタンス戦士が米軍包囲網を突破することができたことによって、ここ数日のあいだに明らかになってきた。一度は川を渡って、次の二度は強力な防御が予想された市の北西において突破した。
 イスラム・メモ通信員は、ファルージャを包囲する米軍への地上の補給ラインを、レジスタンス勢力が切断することに成功したと伝えてきた。その後、米軍は相手が入念に計画した消耗戦をおこなうことを迫られ、米軍兵士はレジスタンスとの長期の接近戦を強いられるようになって、4月の一回目の包囲攻撃で体験したように、みずからを危険にさらしている。
1週間近く、大きな戦闘は夜間を除いて発生してない。ファルージャに対する米軍の空襲でさえ、米軍の攻勢の初期ほどの激しさはなくなった。
  米軍はブイリン庭園においてレジスタンス勢から形状不明のロケットで攻撃されて苦杯をなめた。そこでは米軍は深刻な損害をこうむり、それは死傷者を搬送するのに4機の大型ヘリ・チヌークを要請した事実によって証明された。
 もう一つの進展は、ユーフラテス川を見下ろす通りから米軍狙撃兵が退却したことであり、それによって、市の状況を西側から見ることができるようになった。
 イスラム・メモが米軍の退却を伝えるのは、今回が初めてではない。4月の第1回目の包囲攻撃において、イスラム・メモは最初の米軍のファルージャ退却を報じた。当時、他にアメリカ軍の退却を報道するメディアがなく、「勝利」と「前進」が停まらないという米軍の公式発表ばかりが単純に繰り返されていたので、一部からは非難されたりもしたものだ。しかしながら、やがてイスラム・メモの報告が正確であることが証明され、米軍がファルージャからの退却路を確保するためにファルージャの代表と交渉するようになるまで、それほどの時間を要しなかった。

米軍は傲慢な口調を和らげてきたがレジスタンスは提案を拒絶
US now adopts less arrogant tone but Resistance rebuffs their appeals.

 イスラム・メモ通信員はファルージャから次のように伝えた。−−米軍は拡声器と通訳を通して市内の住民に呼びかけるとき、彼らの口調を変えてきた。26日夜に届いた速報において、通信員は、ここ数日は、米侵略軍はファルージャレジスタンス戦士を「犯罪者」あるいは「テロリスト」と呼んできたが、最近の呼びかけではアメリカ人は彼らを「戦士」と呼ぶようになったと報じた。
 通信員によると、アメリカ軍はレジスタンス側に一つの提案をし、アメリカ軍がファルージャの全方面から退却することを約束するかわりに、彼らが武器を捨てることを呼びかけた。これは米軍の最初のもくろみからの譲歩に等しい。米軍のもくろみは失敗したが、どう猛なハイテク攻撃で市を支配しようとするものでしかなかった。
 アメリカ側がこの提案のメッセージを広報したのは25日の夕方遅くであった。レジスタンス勢は、その呼びかけに使われた自動車にロケット弾と銃撃を浴びせることで回答した。

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