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『from 911/USAレポート』 第122回

ラスト・サムライ』という事件

 ■ 冷泉彰彦   :作家(米国ニュージャージー州在住)

ラスト・サムライ』という事件

監督がエドワード・ズウイックということで、ただ事では済まないだろうとは思っていたのです。それにしても、映画というのは最終的に編集された作品を見ないと何も言えない、ということに尽きるのでしょう。『ラスト・サムライ』という映画が、この2003年の末に公開されるというのは「事件」としか言いようがありません。これは、漠然とした日本ブームなどというレベルを越えた話です。
これは100%エドワード・ズウイック監督の作品です。作品の隅々まで、監督の味付けが行き渡っているのです。まだ中堅と言うべきズウイック監督の履歴書(レジメ)を見ると、そのカラーが一貫していることに驚かされます。どの作品もメロドラマとして濃厚な味付けがされており、その味は見事なまでに一緒です。

その味付けとは、「名誉と正義」というスパイスです。ズウイック監督の演出作品には、すべてこのスパイスが利いています。一度味わったら忘れられない味です。洗練された最上の味ではないのですが、多くの人に中毒症状を起こさせる刺激的な風味です。他でもない、監督自身がその風味に酔いしれているのですから。

まず、この映画は全くのフィクションだというのは言うまでもありません。最初から最後までストーリーに絡むエピソードは、明治新政府とアメリカの間の武器供給契約をめぐる疑獄めいた話ですが、そんな史実は聞いたことがありません。また、明治新政府に対する旧士族階級の大規模な反乱が描かれていますが、その反乱の性格は、西南戦争など一連の「不平士族の乱」とは全く異なります。

明治十年(1877年)になって、富士山麓の近くに明治政府の支配の及ばない地域が残っていたなどというのは、設定としては大胆不敵というしかありません。第一「不平士族」の本質にある経済的困窮や、変化への対応の失敗、更には征韓論など後世の価値観から見て格好の悪い部分は、全部切り捨てているのです。

史実だけではありません。脚本と演出の骨格をなす「名誉と正義」のスパイスとして、ズウイック監督が今回選んだのは「武士道」です。その「武士道」が、ストーリーと演出によって巧妙に語られています。日米の映画好きを感動させるほど巧妙な語りに他なりません。ですが、この「武士道」も作り物です。

「武士道とは死ぬこと」だとか「桜の花のように一瞬の美しさを咲かせて散るのが武士だ」いう説明があります。一見すると『葉隠』の哲学が分かりやすく紹介されているように見えます。また、反乱軍の自治地域では人々が農耕に従事し、刀鍛冶があったり、自給自足の質素な生活をしているように描かれています。これも日本人にはある種の原風景のように錯覚させられます。

ですが、冷静に考えてみれば『葉隠』というのは江戸時代に官僚化し、既得権にしがみつく階層として退廃した武士への警告の書です。もっと言えば、異端の書です。また、江戸時代には武士階級は工業生産や農業にはあまり従事していませんでした。反乱軍のリーダーが、庶民的な芸能に興じる場面がありますが、これも戦国以前の雰囲気であって「死ぬこととみつけたり」という時代とは違います。

どうやら、ズウイック監督の今回のスパイスは「人工調味料」のようです。日本の歴史や文化の良いところ、ストーリーや人物像の効果を高めるために都合の良いところを、時間軸も史実も無視して、勝手に混ぜ合わせ「名誉と正義」について人工的なスパイスを「でっち上げて」いるように思えるのです。

主人公のネイサン(トム・クルーズ)のモデルは恐らくいないのでしょうが、もう一人の主人公と言うべき反乱軍のリーダーであり、明治政府の参議であったカツモト(渡辺謙)のキャラクターには西郷隆盛新撰組を混ぜ合わせて、武田軍団もどきの武装をさせています。歴史の時間軸は無茶苦茶ですが、人物像として人工ブレンドの妙とは言えるのでしょう。

悪役であるオオムラ参議(映画監督の原田眞人氏が熱演しています)も、大久保利通並みの権力を持ちながら、井上馨のように西洋通で、黒田清隆のように腐敗しており、そのくせ山県有朋のように陸軍を敢然と指揮するという具合で、正に「ブレンド」の人物像が与えられています。

極めつけは天皇像で、参議の一堂に会した会議の席のイメージなどは史書通りなのですが、「君臨か統治責任か」という悩みに引き裂かれる人物像は、伝えられる明治天皇の人物像とはかけ離れています。ここには、美濃部達吉博士の「天皇機関説」に心酔しながらも、大日本帝国憲法の統治権と統帥権をどう行使したら良いか揺れ続けた昭和天皇の人物像が明らかに投影されています。

これでは時代考証もあったものではないわけで、映画として成功するはずがない、常識的にはそうです。ですが、ズウイック監督の「ブレンド」魔術は、実に効果的なのです。「名誉と正義」という監督お得意の味付けが濃厚に、しかも効果的に使われているのです。

この「名誉と正義」というスパイスの秘密は、監督の過去の作品に辿ることができます。まず、監督の出世作『グローリー』ですが、これは南北戦争をヒロイックに描いた作品です。視点を「史上初の黒人部隊」を統率する若き白人のR・G・ショウ中佐に設定し、志願して北軍に入隊した黒人たち(モーガン・フリーマンデンゼル・ワシントンなど)が中佐の訓練を経て自尊心を確立し、南軍との決戦に立ち向かっていく姿が劇的に描かれています。

この作品は「人工ブレンド」というよりも、元々強烈な説得力のある「歴史秘話」を引っ張り出してきて、単純な味付けを施した作品と言えるのでしょう。しかも、南北戦争における北軍の正当性、そして今に残る人種差別への告発という政治性を臆することなく叫んでいる、それがヒロイズムの強烈な味付けに合っているのです。さすがにこの作品を批判する人は少ないようです。

ネイティブ・アメリカン(インディアン)の問題を描いた作品、『レジェンド・オブ・フォール、果てしなき想い』では、連邦政府に絶望したラドロー大佐(アンソニー・ホプキンス)が三人の息子たちとモンタナの自然にこもる設定になっています。物語の過半は、一人の女性をめぐる脂っこいメロドラマで、その壮絶なラブストーリーが、ブラッド・ピットという才能を世に出したとも言えるのでしょう。

アメリカで「連邦政府に反発して自然にこもる」というと、通常は極右なのです。白人至上主義者で、銃による自衛権にこだわり、「有色人種貧困層」への福祉にカネをやりたくないと徴税権を否定する、そんな歪んだ極右が山にこもって、いわば無政府主義のような極端な「ひきこもり」をやってきたのです。残念ですが、そんな伝統がアメリカ社会の暗部として現在まで続いています。

ですが、ズウイック監督の『レジェンド・・・』では、このラドロー大佐一家というのはネイティブ・アメリカン虐殺に抗議して「ひきこもり」、ネイティブ・アメリカンの家族と同居しているという設定なのです。そして、ネイティブ・アメリカンの「荒ぶる魂」に刺激を受け、大自然の野生を身につける中で、ブラッド・ピット演ずる主人公の次男坊は、女性への激情と、名誉をかけた暴力への陶酔に流されてゆくのです。ここでも、「名誉と正義」のために人工的なブレンドが見られるのです。「連邦政府の否定」と「ネイティブ・アメリカンへの同化」という「ブレンド」です。

ズウイック監督は現代の戦争も描いています。湾岸戦争を題材にして、デンゼル・ワシントンメグ・ライアンの競演で話題になった『戦火の勇気』がそれで、これも一見するとライアンの演じた戦闘ヘリコプターの女性機長の勇気というヒロイズムが全面に押し出されて見えます。ズウイック節が、ここでは戦争賛美のメロドラマになっているようにも見えます。ですが、この作品の味付けもユニークです。

物語の視点はデンゼル・ワシントン演ずるサーリング中佐という陸軍軍人で、湾岸戦争の戦車部隊における友軍誤爆という過去を背負っているのです。誤ちを犯しながらも、許されることで余計に精神的に追いつめられ、アルコール依存に陥っているという設定です。

このサーリング中佐が、女性兵士(メグ・ライアン)の名誉を調査する中で多くの傷ついた帰還兵と巡り会い、少しずつ自分の心の傷を癒していくのが主要な物語です。そのどうしようもなく苦い味付けが、この作品のスパイスなのでしょう。直接的な反戦ではありませんが、帰還兵への政府や社会の冷淡な姿勢を告発する中で、戦争の意味を問う作品になっています。

更に現代的なテーマを描いた作品としては『マーシャル・ロー(原題は "The Siege『包囲』")』があります。NYがアラブ系のテロリストに襲われ、小規模なテロから大規模な攻撃へとエスカレートする中で、最終的にはNY全市に「マーシャル・ロー(戒厳令)」が布告されてアラブ系住民は収容所に入れられる、という政治スリラーです。1998年に公開されたのですが、ものの見事に911を予告するなど運命的な作品になりました。

運命というのは、まず公開直後のバッシングです。リベラル系の批評家たちから「アラブ人の人権を守れと言う趣旨は分かるが、これではアラブ人=テロリストという偏見を助長しかねない」という批判が出ました。これに、実際のアラブ系アメリカ人団体が同調して「あっけなく」上映中止に追い込まれてしまいました。

ここでの「名誉と正義」は、アメリカの自由と民主主義です。テロに怯えてアラブ系を差別してしまえば、アメリカは内部から崩壊する、911以降実際にアメリカが直面した問題そのものを、1998年の時点で問いかけたのです。クライマックスで「俺が国家だ、俺が法だ」というブルース・ウィルス演じる将軍に対して、「あなたは憲法を破壊している。拷問と殺人の現行犯だ」と逮捕状を突きつけるデンゼル・ワシントンFBI捜査官の「対決」は、まるで劇画タッチではありますが、メッセージは強烈で明確なものがありました。

さて、この『マーシャル・ロー』ですが、バッシングの結果、ズウイック監督は業界から干されたような形になり『恋に落ちたシェイクスピア』などという(娯楽としては傑作ですが)ノンポリ映画の製作などに一時期を過ごしていました。更に911以降は、余りに生々しく事件を予言してしまったために、ビデオとDVDが一旦店頭から消えるという仕打ちを受けてしまったのです。

そのズウイック監督が、名誉挽回をかけて臨んだのが、この『ラスト・サムライ』というプロジェクトなのですが、時間軸を無視して「でっち上げ」た「武士道」だけでなく、ズウィック節と言うべき「名誉と正義」のスパイスは、監督の過去の作品の集大成とも言えます。

トム・クルーズ演ずるネイサン・オールグレンという軍人は、南北戦争の英雄で(『グローリー』)、ネイティブ・アメリカン殺しの過去にさいなまれ(『レジェンド・・・』の裏返し)、酒におぼれて(『戦火の勇気』)いるという設定です。映画を通して、「滅び行くサムライ」のイメージが、アメリカ原住民の「荒ぶる魂」のイメージに重ね合わせられてもいます。

悪役のイメージも同じです。オオムラ参議率いる「明治陸軍」は、突撃する黒人部隊に容赦なく砲弾を浴びせる南軍(『グローリー』)であり、憲法を無視してアラブ系を収容するアメリカ軍(『マーシャル・ロー』)のイメージも重なって見えます。

ズウイック監督の意図は明らかです。明治以降の近代化を進める日本は「悪」であり、その近代日本に武器を供給するアメリカ政府の方針も「悪」なのだ、というメッセージです。その「悪しきアメリカ」はネイティブ・アメリカンを虐殺し、今また世界中で異なる文化を踏みにじっている、そんな想いも入っているのでしょう。

アメリカの「悪しき」部分と、日本の「悪しき」部分が手を組む同盟ではなく、日本の「良き部分」を探して、アメリカと日本の関係を変えてみたい、どうやら、監督の意図はそのあたりにあるようです。

丁度、この『ラスト・サムライ』の公開直前になって、イラクにおける日本外務省の奥克彦、井ノ上正盛両外交官とジョルジース・スレイマーン・ズラ運転手の死亡という事件が飛び込み、前後して小泉内閣の「自衛隊派遣」の方針が固まりつつあるようです。

小泉総理は、トム・クルーズの「表敬訪問」に大喜びして、映画の宣伝に一役買わされていましたので、イラク自衛隊を派遣すれば、「俺もアメリカ人からサムライだと思ってもらえるだろう」などと考えているかもしれません。鈍感な総理のことですから、実際に映画を見ても「感動した、武士道は素晴らしい」などと言い出しかねません。

まして2002年の「ブッシュ=小泉会談」では、両首脳は明治神宮で「流鏑馬(やぶさめ)」を見物して、「サムライ文化」を楽しんでいたのですから。そのブッシュ大統領の方も、この映画を見れば「日本は最高の友人だ。武士道と手を組んでイラクを平定しよう」などと思うかもしれません。

ですが、映画の中で語られるズウイック監督の意図は正反対と見るべきでしょう。アメリカの軍需産業明治政府が結託した軍事作戦は「悪」であり、不名誉だとはっきり描かれているのです。近代化とは別のものでも、異文化の精神性を大事にしよう、そんなメッセージも明白です。「カウボーイ文化」と「サムライ文化」の結託でも何でもなく、「カウボーイ」と「日本軍」の同盟を全否定する一方で、ネイティブ・アメリカンのイメージと重なる「無垢なサムライ」と「静かな日本文化」への尊敬を描いている、一言で言えばそういうことになるでしょう。

これは事件です。従来のアメリカの日本通は「再武装を歓迎する共和党」か「異文化礼賛のノンポリ」に限られていました。共和党の日本通は第二次大戦の敵と言うよりも、冷戦の盾としての日本に対して甘い見方しかして来ませんでした。一方で、大学関係などの日本通は、あくまで異文化への知的好奇心として、ノンポリ的な日本礼賛をする傾向が強かったのです。

そんな「日本通」の思惑とは別に、庶民レベルでの文化交流が進みました。この欄でも再三お話しした通り、宮崎駿監督のアニメが尊敬を集め、トヨタ車の品質に惚れ込むユーザーとディーラーが続出し、豆腐や寿司などの健康食を最新のトレンドだと思う層が40歳以下では圧倒的です。その延長で、日本語のフレーズが普及したり、野球選手の交流なども自然に進みました。今や、日本の技術や庶民文化はアメリカ社会に深く組み込まれていて、それを脅威だと思う人はわずかです。

その一方で「政治的なリベラル」の人々の日本観は渋いままでした。第二次大戦の戦後処理が不十分」であるという感覚や「過労死など個の尊厳を無視した企業文化」への冷淡なまなざし、更には女性差別や性的な文化の退廃などの社会現象を過度に見下す傾向なども、まだまだあります。日本側に反省すべき点が多くても、見下すような姿勢では良い形の交流にはならなかったと言えるでしょう。アメリカのリベラルとしても、民主主義のレベルという点で、中国が日本を上回ったら、本気で日本無視をやりかねないようなムードもありました。

ですが、この『ラスト・サムライ』は、いわば「政治的リベラル」の立場からの強烈な日本へのラブコールなのです。「日本の軍国主義は悪かった。でも日本そのものが悪であるはずはない。日本に良い部分があるなら伝統文化の中にあるはずだ。ならば日本の精神的な伝統と思われる『武士道』を現代でも受け入れられるよう『良きもの』とする解釈はできないだろうか」という思いの結果できあがったのが、この「人工スパイス」がふんだんに振りかけられた『ラスト・サムライ』というわけです。

もう一つ言えば、IT革命以降の拝金主義、911以降の国粋主義のために、伝統的なキリスト教の禁欲主義や理想主義がボロボロに崩壊してしまった結果、異文化、それも思いっきり違う価値観に興味を持ち、救いを求めている、一連の現象が行くところまで行ったとも言えるのでしょう。その結果として、多弁を慎み、言外の所作に感情を込めるようなコミュニケーション、その微妙な世界にアメリカ人が酔いしれているのですから、これは相当なことです。

私は公開一週間前の先行上映に行ってきました。白人がほとんどの庶民的な田舎のシネコンでしたが、観客の反応は予想以上でした。最初の30分ぐらいで、もう観客は全員で「サムライ」たちに感情移入してしまっているのです。物語のクライマックスにさしかかり、満開の桜の下での生と死のドラマが繰り広げられると、場内ではすすり泣きが聞こえてきました。ズウイック監督の「名誉と正義」の毒が全身に回った結果、『武士道』なるものに洗脳されてしまうアメリカ人が続出しそうです。

ただ、私はこの作品は完全ではないと思います。何はともあれ「名誉と正義」の名のもとに、殺戮や自殺が美化されるのは恥ずかしい、ということは忘れるべきではないでしょう。何よりも「命の安い文化」の代表として、アメリカと日本とが世界から笑いものにされてしまっては、実に格好の悪い話です。

それとは別に、この『ラスト・サムライ』には根本的な欠点があります。それは、武士道で分かり合ったのだから、日米が手を組んでドンパチやってもいいじゃないか、というメッセージの「はき違え」を招く危険が残っているという点です。監督の過去の作品を知り、日米関係の過去と現在を知るものには「日米軍事同盟への批判」は明らかなのですが、そうではない人々には「格好良いサムライと一緒にサダム討伐に行こう」などという、小泉、ブッシュ並みの勘違いを招きかねないのです。その点では演出が不完全だと言っても差し支えないでしょう。

私は北米市場の興行収入が100から150ミリオンの範囲に収まっていれば安全だと思います。ちなみに、より筋書きの分かりにくい『マイノリティ・レポート』が最終132ミリオンでしたから、150というのは可能でしょう。ですが、200ミリオンを越えるメガ・ヒットになってしまうようですと「勘違い組」が相当出るような感じがします。同傾向の『グラデュエーター』が最終的には187ミリオンまで行っていますから、この200というのは、あながち不可能ではないかもしれません。

そうなると「勘違い組」への危惧から、渡辺謙さん(助演男優賞に関して、現時点での下馬評は爆発的なものがあります)を含めたオスカー受賞の可能性は遠ざかるでしょう。オスカーという「場所」は、何はともあれリベラルの牙城だからです。

日本側でも「勘違い」が起きる可能性があります。「日本も『名誉』を追求しても構わないんだ。自主武装も構わないじゃないか。外交官を殺されても弱腰でいるような『不名誉』ではダメなんだ」という勘違いの危険です。この『ラスト・サムライ』について、アメリカでは『ブレイブハート』や『ダンス・ウィズ・ウルブズ』などと同格に論じるような「絶賛」も目にしますが、少なくともテーマについて誤解を許す点で、この二作には劣ると思います。

もう一つ、心配なのは作品の中に出てくる女性像です。小雪さん演ずるタカという女性は、気丈で高潔に描かれていますが、やはりイメージが保守的に過ぎます。あんな女性に癒されてみたい、と思うアメリカ人男性が続出するとしたら困ったものです。実際にアメリカ人を伴侶に選ぶ日本女性は、個の尊厳を認めて欲しいという傾向が強いと思われますから、双方の思いがすれ違う危険があるからです。

いずれにしても、これから当分の間、大学や地域社会で『サムライ文化』について質問攻めにあうことを覚悟しなくてはなりません。そのこと自体は悪いことではないにせよ、本当の日本の歴史や文化を説明するのは大変です。何よりも日本文化の美点は、武家の文化よりも、庶民の文化にあることは最低でも指摘しなくてはなりません。

ちなみに、このエドワード・ズウイック監督という人は、ハーバードの東洋学科で日本学を学んだそうです。外国人初の文化功労者を受章して、先年亡くなったマリウス・ジャンセン博士(プリンストン大学名誉教授、主著は『明治維新坂本龍馬』)の孫弟子に当たり、東海岸の日本学の世界では「変わり種の卒業生」として有名なのだそうです。

どうやら、監督の「武士道という人工スパイス」は、実は日本学の論文を研究し尽くした上での確信犯のようです。その日本学界では、この映画の話題で持ちきりだそうで、「リベラル系からの日本へのラブコール」という現象が本格的に起こるかもしれません。