【ねこまたぎ通信】

Σ(゜◇゜;)  たちぶく~~ Σ(゜◇゜;)

 今日からムゼー

先日,ケニア人にムゼーと呼ばれましたので,私のことは今日からムゼー・タカパパと呼んでください.
ムゼーというのはスワヒリ語で,年配の男性に対する敬称であり,中国語の老師に相当する言葉です.敬称なので悪い気はしないのですが,労り尊敬すべき老師として若者から見られる歳になったのだなあと感慨ひとしおです.
ケニアの社会では,老人が敬われるのは当たり前のことで,バスやマタトゥ(乗合自動車)で席を譲るのはごく自然に実行されています.そういう社会では,優先座席など必要ないのですね.
日本では40〜50歳台というのは,まだまだ働き盛りで,満員電車で席を譲られなくても,ま,当たり前の年齢なんですが,平均寿命が50歳台というアフリカの国々では,やっぱり私くらいの歳になるとムゼーなんでしょうね.実際,早婚の社会なので40歳台でおじいちゃんおばあちゃんになるのは珍しくありません.^^;
つまり,彼らから見たらやっぱり私はムゼーなのです.


さて,そんなムゼーは,今日も満員電車に1時間以上も揺られながら働きにでているわけです.私が利用しているJR福知山線は今日も無事に走っていますが,とりあえず,
なおちゃんを返してください
そして,ゆきちゃんを返してください
と心で叫ばずにいられませんでした.
ゆきちゃんは,なおちゃんを返してと,いや,帰して,が本当かもしれません,叫び続けました.いままでと変わりなく,家に帰ってきてほしかったに違いありません.それは,取り返しのつかない不条理に対する悲痛な叫びでした.
いつも通り家に帰ってくるというささやかな事こそ,失ってはならない幸せの根幹だと改めて気づかされます.
人間は,失われた命を弔い,その故人との関係において自分こそが愛を注ぐ主体であるという実感を伴うことで,現実の世界に残された自分をつなぎ止め,明日を見つめることができるのです.でも,ゆきちゃんは,故人との実質的な関係を他人から形式的な理由で否定されてしまいました.だから,ゆきちゃんは,誰にも邪魔されないなおちゃんのところへ行くことにしたのです.


今年の夏に,分娩中のみかちゃんを失ったしんちゃんもそうです.しんちゃんは,十分な治療を受けることが出来ていたなら,その上でみかちゃんを失ったなら,みかちゃんの死に意味を見いだすことが出来ると云っていました.ですが,診断ミスの上に18の病院に受け入れを断られ,十分な治療を受けられないまま,生まれたばかりの赤ん坊の顔を見ることもなくみかちゃんは行ってしまいました.
診断した医師のミスなのかどうかは不確実です.判断が一般的なものなのか,経験上問題ないと判断したのか,専門的な世界のことですから,一概に責められませんが,患者の家族の心配と不安を配慮してあげられていたならば,仮眠をとる前に重篤の可能性を考えて別の診断を行うことも出来ただろう.ベッド数が足りないので受け入れを断った18の病院も同じで,断る理由はわかるのだが,ベッドのことは後回しで,とりあえず治療は出来ないものなのか,件の産婦人科では手に余る状況だから受け入れ要請をしているのに,なんとか「手を尽くす」というのは出来ないものなのか
みかちゃんを救ってやれないしんちゃんのもどかしさはいかほどだったろう.不条理な形式的判断とそれによる不作為が躊躇なくみかちゃんとしんちゃんの関係を断ち切りました.自分の手では「手を尽くして」やれないしんちゃんは,自らの無力さに絶望するしかありません.


飲酒運転による事故や子供たちのいじめ自殺の件もそうですが,最近,とみに感じるのは,失われた命は本当に取り返しがつかない,という自明の事なのです.
かけがえのない命に対する想像力,他人に対する思いやりの心,それらの欠如こそが,失われた命を取り返しのつかないものにしていませんか?


今日のムゼーは電車の中でうつらうつらしながら,そんなことを考えていました.


(写真は,カバのオーウェンとリクガメのムゼー,Lafarge - Cement, concrete and aggregates


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