【ねこまたぎ通信】

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「血の金曜日」事件の実態 残虐な襲撃で多数の死傷者 目撃証言で明らかに

イラワディ・オンライン
2003年6月6日
アウンゾー(イラワディ誌編集長)


 30日夜にサガイン管区デパイン郡で起きた一連の事件は、民主化指導者アウンサンスーチー氏と支持者への組織的な攻撃だった。現場にいた目撃者はイラワディ誌が入手した書簡の中でこう記している。このニュースをビルマから密かに持ち出したこの著者は、逮捕を逃れるため今も潜伏中だ。

 目撃者によれば、暴漢はスーチー氏の車の窓ガラスを破り、車内にいた氏を竹の棒で殴った。著者は事件の様子を詳しく記し、今回の攻撃は軍政が作る翼賛組織「連邦団結発展協会」(USDA)のメンバーが起こしたものだと述べた。この組織の会長は軍政トップのタンシュエ上級将軍だ。
 信憑性があると思われるこの書簡は、集団による暴力行為が行われ、丸腰の民間人が殺されたとの当初からの主張を裏付けるものだ。首都ラングーンの外交筋はすでに、襲撃の際にスーチー氏が負傷したことを明らかにしており、米国大使館は5日、今回の事件は周到に計画された待ち伏せ攻撃だと報告している。

足止めされた車列に襲撃
 この目撃証言によると、国民民主連盟(NLD)のスーチー書記長と支持者は、30日午後6時30分頃にブタリン郡を出発し、デパイン郡に向かった。車列が町を離れるとき、USDAメンバーが乗った台数不明の車列が一行の尾行を開始した。

 スーチー氏ら一行は午後8時30分頃、デパインから約3マイル(4.8km)先のチー村に通りかかった。書簡によれば、村人はスーチー氏とNLD党員を出迎えに集まったという。

 しかし騒ぎはここから始まった。村人に見送られながら村を抜けようとする一行だったが、この村に住むという一人の僧侶にスーチー氏の車が呼びとめられた。この僧はスーチー氏に村での演説を頼んだ。ラングーン出発時から氏に同行しているボディガードは、この僧侶に、もう夜で時間も遅いため、ここで車列を止めることはできないと丁重に断った。しかし僧侶はこの要請を聞き入れなかったと書簡は記している。

 そこでトゥンゾーゾー氏が車から降り、丁重に申し入れを断った。氏は昨年5月にスーチー氏が自宅軟禁から解放されてから側近役を務めている。2人が話をしている間に、車列を尾行していたUSDAメンバーが、車列の近くにいた村人を襲い始めた。

 襲撃が続くにつれて、車の台数は増えてきた。USDAメンバーはNLD支持者にも近づいてきた。書簡は、NLD党員の側は、USDAが自分たちを攻撃してくるとは考えていなかったように見えたと記している。

 この間、僧侶と付き人は住民が殴られるのを黙って見ていた。スーチー氏の警護を担当するNLD青年部メンバーはこの僧侶に対し、間に入って住民への暴力を止めさせるよう依頼したが、僧侶は拒否した。ビルマから届いたこのほかの報告によれば、襲撃現場には僧侶の格好をした多くの男性の姿があった。

 乱闘は30分間続いたが、丸腰のNLD党員は暴力的な行動を取らなかったと著者は書いている。モンユワからスーチーに同行していた学生たちは道の脇からレンガや岩を集めて、USDAメンバーから身を守ろうとしたが、党幹部らは反撃をしないように支持者に要請した。NLD幹部への殴打が始まったのは、支持者が襲撃された直後だった。車の中にいた人々が殴打された。車から降りるように命じられ、服を脱がされた人もおり、書簡によれば、NLD女性党員を含む支持者の中には服を脱がされたままにされた人もいたという。

スーチー氏らが標的に
 支持者がスーチー氏の乗った車を守ろうとすると、USDAメンバーがやってきて集まった支持者の頭を殴った。NLD青年部のメンバーはスクラムを組んで車を守ろうとしたが、USDAに引き倒された。

 スーチー氏の車の窓ガラスが割られると、USDAメンバーと暴漢は氏を竹の棒で殴り始めた。しかし運転手は車を動かし、襲撃から逃れることができた。スーチー氏の車はデパインに向かった。

 ビルマ国内の民主化勢力筋の情報によれば、USDAメンバーは「お前らは『カラ』の妻を守っているのか」というののしりの言葉を叫んでいた。「カラ」とはビルマ語で南アジア人、インド人やムスリムを侮蔑する単語だか、西洋人に対しても使われる。ビルマ軍事政権はこれまでにも、英国生まれのチベット研究者マイケル・アリス氏(99年3月に故人)と結婚したことを理由に、スーチー氏をこの言葉を使って罵倒している。

 一方で、ティンウー副議長が襲撃者の一人と乱闘しているのも目撃されている。氏は車を降りて走ったと書簡は記している。USDAメンバーは金属や竹製のこん棒を振り回し、デパインへ向かって逃げようとするNLD党員を追跡した。しかし書簡によれば、デパインの街にもUSDAのメンバーが待ち構えていた。近くの田んぼに身を潜めて攻撃から逃れようとした支持者もいたという。

 この書簡では、負傷した、あるいは亡くなったと考えられているNLD党員、支持者の名前が挙がっている。トゥットソー(ラングーン出身)、ポーキン(ミンジャン選出のNLD国会議員)、ウィンアウン博士(マンダレーのアマラプラ出身)、ゾーリン(同)、アウンコー、キンエイミン(女性、NLD党員)、キンマウンウー(マンダレー南西部出身の写真家)、ウー・チットチン(マンダレー北西部出身)、ニュンニュン(女性、マンダレー北西部出身のNLD党員)だ。

 町での暴力が続いていると、デパインの住民が外に出てきて「ドー・アウンサンスーチー万歳」と連呼した。しかし、書簡によれば、USDAは一台の車に積んだ拡声器から夜間外出禁止令を布告した。軍の車両がまもなく到着し、現地の国軍部隊がデパインの住民と対峙した。

 書簡は銃撃が聞こえたと記しているが、兵士が人々に銃口を向けて発砲したのか、空に向かって威嚇射撃をしたのかははっきりしていない。午前2時まで一触即発の状態が続いた。書簡の著者は何時間も暴力と叫び声が続いたと記している。

翌朝も続いた弾圧
 この目撃者は翌31日朝に、ティンウー氏の載っていた車が、窓が破られた状態で近くの水路に突っ込んでいるのを見ている。他の証言によれば、このほかに複数の車が燃やされていた。NLDマンダレー事務所の車のうち、2台の車内には血がべっとりとついていたという。

 後日現場を調査した米国大使館員は現場付近の道路沿いに大量の破片を発見した。引き裂かれ、血のついた衣服の切れ端、多くの武器、壊されたヘッドライトやバックミラーなどがあった。

 襲撃から逃れることができたNLD党員約60人は衝突現場に戻り、日の出を待って態勢の建て直しを図った。しかし軍、警察、地元当局がすぐに現れ、大半の人がトラックに載せられて連れ去られた。

 このときテットトゥンウー(NLD所属国会議員)、アウンソー(NLDマンダレー管区組織委員会)、フラウー(マンダレーのアマラプラ出身)らが逮捕された。

 衝突の知らせを聞いた多くの支持者がスーチー氏の車を追ったが、別の車列の妨害を受け、攻撃に遭った。複数の目撃証言によれば、タイヤをパンクさせるため釘が地面に仕掛けられており、タイヤに向かって発砲も行われた。

 書簡はまた、マンダレーの有名なNLD党員ウィンミャミャ氏が、現地のアウンナイン大尉に逮捕されたと記している。氏の家族は連れ去れた先は不明だと話している。氏は襲撃事件の際に腕を骨折したとの情報がマンダレーのNLD筋から伝えられたが、負傷の有無について第3者による確認は行われていない。

 モンユワ近くの病院スタッフは、負傷したNLD党員は一人も来院していないと話している。モンユワとデペインの電話は不通になっていた。

 書簡によれば、現在も潜伏中のNLD支持者の多くは食べるものがない。傷の手当てが必要な負傷者も多い。一方、当局は民主化運動支持者を続々と逮捕している。モンユワ・デペイン間の通行止めが現在も続いている。

 各通信社は、死者数は軍政が主張する4人ではなく、80人近いと推計している。マンダレーのNLD消息筋によれば、死体がトラックに積まれるところが目撃されている。(訳、箱田 徹)

出典:Irrawaddy Online: Eyewitness Tells of Bloody Friday (6th June, 2003)