もちろん救えますね
長女が友達に「うちは年に二三回しかマクドいけへんで」という話をしたところ,「えー?ありえねー!」「うっとこなんか週二三回行くでー」という返答が帰ってきたそうな.
あんな危険で不味いゴミを子供に食べさせてはいけませんね.
さて,人間というのは二人集まれば,ただそれだけで諍いの種は尽きることがありません.家族や友人であっても,必ず交わる部分と交わらない部分というのがありまして,ま,赤の他人なら相容れないところは無視すればいいわけですが,家族は,特に夫婦はそうはいかない.近しい関係であればあるほど,そして,もとは生育環境も遺伝的形質も異なる赤の他人であればなおのこと,交わる部分と交わらない部分の境界はより曖昧であり,それを捨て置けないという事情があってあーでもないこーでもないと言い争ったり,悩んだり,ふさぎ込んだりするわけです.
愛情があればこそ,人は確執や諍いの場で悩み苦しむ次第です.
この場合,良くないのは力関係によって諍いを解決しようとすることですね.もちろん,物理的暴力だけでなく,口が達者とか,脅迫とか,まー,いろいろ手練手管で相手を抑えつける,これは良くない.心根が卑しい.
よく旦那に,殴るo(°^゜)○☆バキッ蹴る( ・_・)┌θ☆( >_<) ドカッの暴行を受けても「そんな男となんで別れへんの」と云いたくなるほど堪え忍ぶ女性がおられますが,いろいろ事情はあるにしてもやはり根本に愛情があるゆえなんでしょう(まれに逆のケースもありますが^^;).「あんな女癖の悪いだらしない男のどこがええのん?」ってのも大きなお世話だったりします.
「殺されてもいいほど」「殺したいほど」などという表現は,あながち誇張ではありません.文字通り死んじゃったり殺しちゃったりするケースも少なからずあります.いろんな愛の形があるのです.「喧嘩するほど仲がいい」のであるが,相手を傷つける愛もあり得て,中にはちんちん切って懐にしまっておいたりするのもありです.愛が強ければ強いほど性愛の快楽も強くなりますし,自制のタガが吹っ飛ぶ場合もあります.みんな経験があるはずです.
ですから,他人の愛情のことをとやかく言うのは無粋と云わざるを得ませんが,出来ることなら傷つけ合わずに仲が良いにこしたことはありません.愛はきっと使い方次第で,力関係に頼らずにみんなを救うことが出来るかもしれません.だって誰もが持っているものなのですから.快楽におぼれすぎて愛を見失った人,相手を支配したがる人,自己愛が強すぎる人,変態プレーが好きな人,傷つけられることを望む人,いろいろ世の中におられますが,もっと広げてその延長線上で,戦争したい人やお金が大好きな人や差別したい人も,神経症的に行き場を誤ったり,向かうところが違ったりしているだけで,根底にある愛はみんな同じではないだろうか,と優しく思うこのごろなのです.
今,突然思い出しましたけど,スネークマンショーで日本中で餅つき大会をして都道府県ごとについた餅の数を万単位で「○万個!○万個!」って連呼するギャグがありましたが,その中で
「愛は地球を救えるか!?」
「もちろん救えますね」
という台詞がありました.不覚にも私はその時感動してしまいました.日本中が万個で満ちあふれる「愛」がテーマだったのかっ!!って.
どうでしょうか,みんなでもっと「万個」の数を増やしませんか?
きっと救えますよね.