「正確無比な誤爆」現代の無差別爆撃
無差別爆撃の系譜
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20061023/mng_____tokuho__000.shtml
東京空襲の被害者による中国・重慶爆撃の被害者訪問は、民間人に対する無差別爆撃がその後の日本空襲につながっていった連鎖を浮き彫りにした。「戦略爆撃」と呼ばれる、この戦法は被害者にどんな傷を残し、現代まで続いて来たのか。今月二十五日の重慶訴訟第一回口頭弁論を前に、現地取材を交えて考えた。 (橋本誠)
「生まれてからずっと、こういう歩き方です。生活は苦しい」
七日、中国西南部の都市・重慶。多数の死傷者が出た防空洞跡や殉職した消防士の記念碑を見学する東京空襲被害者の訪問団に、小柄な男性が付き添っていた。重慶訴訟原告の厳文華さん(66)。坂の多い重慶の町を足を引きずって歩く。
一九四〇年の爆撃で自宅が全焼。四一年六月五日に起きた大防空洞の惨事に巻き込まれた。夕刻の不意の空襲だったため、自宅の近くまで逃げる余裕がない群衆が公共洞に殺到。酸欠で外へ出ようとする人と、爆撃から逃れて中に入ろうとする人がぶつかり合った。圧死、窒息死した人の数は千人前後から一万人以上まで諸説あるが、実数は今も確定していない。
■防空洞惨事で左足不自由に
一歳だった厳さんに当時の記憶はない。親せきの話によると、抱いていた母親は洞内で遺体で見つかった。厳さんは腰などの骨が折れ、左足が不自由になっていた。どうやって防空洞の外に出たのかは、今も分からない。
それから六十五年、厳さんは重慶で生きてきた。小学校に行けず、文字は読むことも書くこともできない。十二歳でかじ屋に弟子入りしたが、障害で正社員になれず、臨時雇いの重労働を転々。荷物のかつぎ屋や機械部品の製造で食いつないだ。結婚もできず、現在は無職で、独り暮らしだ。
戦後の生活は常に苦しかったが、裁判を起こせることは最近、原告団が事務所を設けるまで知らなかった。訴訟に参加した理由は賠償だけではない。「小泉純一郎前首相が靖国神社を参拝した。今の政府は憲法九条を変える可能性もある。この調子では、また戦争が起きる」と感じたからだ。
帰り際、厳さんは日本の若者たちと抱き合って別れを惜しんだ。「恨みはないはずはないが、日本の庶民にではなく、当時の日本政府に対してだ。遠い東京から重慶に来てくれて、何よりの応援になった」と穏やかな笑顔を浮かべた。
中国側代理人の林剛弁護士(40)によると、原告四十人には家族を失って孤児になった人や、顔にけがをして夫と離婚した女性、足を切断された男性などがいる。「皆、日本政府が侵略戦争を反省していないことに不満を持っている」と、その思いを代弁する。
■『空爆NO』の新条約を展望
呼びかけるのは市民レベルの連帯。「重慶と東京の空爆は原因と結果の関係にある。レバノンやアフガニスタンの空爆も同じ。被害者が皆反対の声を上げれば、新たな国際条約ができるかもしれない。空爆をなくしたり、少なくできる可能性がある」と展望を描く。
民間人が犠牲になる「無差別爆撃」は、東京空襲や原爆投下を経て現代まで続いている。「戦略爆撃の思想」著者のジャーナリスト前田哲男氏(68)に「空襲の二十世紀」の系譜をたどってもらった。
飛行機の戦争利用は第一次世界大戦(一九一四−一八年)で始まった。「初めは大砲の弾道観測で、やがて爆撃機が登場。大戦後、後方の政治中枢を攻撃し、戦争継続意欲を破壊する思想が生まれた」という。
その思想が最初に現れたのは、スペイン内戦に乗じたドイツ軍による三七年四月のゲルニカ爆撃。軍隊でなく都市自体を攻撃し、人々に恐怖を与えるのが狙いだった。惨劇はピカソの絵画『ゲルニカ』であまりにも有名だ。「それまでの戦争は殴り合い、斬(き)り合いと、常に相手を視野に入れていた。爆撃では、相手が子供か老人かも見えず、自分は危険のない状態から殺せる時代になった」
翌三八年二月、旧日本軍による「重慶大爆撃」が始まる。
「ゲルニカ爆撃は一日で終わったが、重慶は集中した三年間だけで二百十八回行われ、戦略爆撃の思想がより鮮明に現れた。市街地を区分して順に爆弾を落としており、紛れもない無差別爆撃だった」
焼夷(しょうい)弾という対人兵器も使われ、無差別性、対人殺傷性、戦闘継続意欲の破壊という三要件がそろったと位置づける。
当時の国際慣習法は、軍事目標に対する攻撃や地上軍の作戦支援の爆撃しか認めておらず、「日本陸軍から七百キロも離れた都市に対する重慶爆撃は違法」だった。軍事目標に対する攻撃は四〇年に始まったドイツと英国の爆撃の応酬でも当初は意識されていたが、報復合戦の中で無差別爆撃への抵抗感は薄れていく。
大戦末期の日本空襲で、米国は欧州で控えていた夜間に焼夷弾で都市を攻撃する無差別爆撃に手を染めた。前田氏は「アジア人に対するレイシズム(人種差別)」に加え、「蒋介石政権という同盟国に無差別爆撃をしたのだから、日本に容赦する必要はないという意識もあった」と推測。
さらに、重慶爆撃が技術的にも日本空襲に反映された可能性について言及する。
「蒋介石の軍事顧問をしていたシェンノートが『竹と紙でできた街には焼夷弾が有効』という手紙をワシントンに出した。米国はユタ州の砂漠に日本の下町の模型を作って実験し、大戦末期にはナパームという最高の焼夷弾まで作った」
東京大空襲(死者十万人以上)、広島原爆(同十四万人以上)と、犠牲者数が右肩上がりに増えていく中、重慶大爆撃の存在は見落とされがちだ。しかし、前田氏は「ゲルニカで千六百人だった死者数が(重慶爆撃では爆撃日が特定されたものだけで)約一万一千人にケタ違いに増えている。名古屋(死者約八千人)や大阪(同約四千人)の空襲と比べても、少ないとは言えない」と指摘。同じ無差別爆撃を行った負い目がある米国は東京裁判で重慶大爆撃を取り上げず、その違法性は忘れられていったという。
■核抑止戦略やイラク戦にも
前田氏はゲルニカ、重慶で始まった無差別爆撃の思想は、大陸間弾道ミサイル(ICBM)や潜水艦による核抑止戦略や、アフガニスタン、イラク、レバノンなどの地域紛争にも転用されていると強調。今でも爆弾の大半を占める自由落下爆弾は誤爆の確率が高く「ピンポイント爆撃」と呼ぶに値しないし、誘導ミサイルも目標選定を誤れば「正確無比な誤爆」にしかならないと主張する。むしろミサイルの登場で兵士は戦場にいる必要すらなくなり、戦略爆撃は「身体性を失った殺戮(さつりく)」に行き着いたとみる。
「不発弾が市民に被害を与えるクラスター爆弾(親子爆弾)や、劣化ウラン弾も無差別攻撃だ。戦争の長い二十世紀は終わってはいない」
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