【ねこまたぎ通信】

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 ええはなし。

特集WORLD:この国はどこへ行こうとしているのか−−湯川秀樹氏夫人・湯川スミ

http://www.mainichi-msn.co.jp/tokusyu/wide/archive/news/2005/10/20051021dde012040066000c.html


◇時間が欲しい95歳−−京都からの発言

◇9条を世界連邦の大会で紹介すると「えらい、いいな」って世界の人が言うてくれる。日本がやめたんでは困る


地下鉄の駅の階段を上りきって鴨川沿いに出ると、川面からひんやりとした風が吹いてきた。「京都の空は広いなぁ」。そんなことを考えながら橋を渡り、しばらく歩くと湯川スミさん(95)のお宅にたどり着く。
「どうぞ、どうぞ」。ひじかけのある椅子にすっぽり納まるように腰掛けた湯川さんが、まあるい声で迎えてくれた。正面からお顔を拝見して驚く。若い。手はすべすべ、しわもない。つやつやした頬(ほお)にオレンジ系の口紅が映えている。黒地に白い線で花を描いたブラウスに、長い真珠の首飾り、暖かそうなひざ掛け。背後の大きな本棚には、すっかり茶色くなった背表紙に「素粒子論 湯川秀樹」の文字が見えた。
「10年ほど前に入院してな。なんでか、足がこっち(右)の方が短くなってんな。毎日午前と午後にリハビリの先生がきはって、それから月曜日と金曜日の午後には人がきてお風呂に入れてくれはる。空いた時間に、部屋の中を手押し車を持って100歩ずつ1日に5回。外も1日1回歩くようにって先生に言われています。1日5回ゆうと大変です。時間がなかなか。自由になる時間が少なくてね。ほ、ほ、ほ、ほ、ほ」
 ●アインシュタイン

湯川秀樹博士(1907〜81年)が、原子核の中に陽子と電子の中間の重さの粒子(中間子)が存在すると予想する論文を発表したのは1935(昭和10)年。その後、宇宙線から予想通りの粒子が発見され、49年に日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞する。
敗戦で打ちひしがれた日本人にとって、まさに英雄だった。核兵器にも強く反対し、がんで亡くなる直前まで、世界連邦政府をつくり、戦争のない世界を実現するという運動に取り組んだ。
「原爆が落ちたのが昭和20(1945)年。昭和23年にアメリカのプリンストン高等研究所に秀樹さんが教授として招かれ、私も行ったんです。そこにアインシュタイン博士もいらした。日本人が来ているそうだから会いたいとおっしゃって、お部屋に呼ばれた。研究室から見ていると、博士が若い大きな男を2人連れて来はった。ボディーガードですね。ご自分の家から10分ほどのとこですけど、ヒトラーに殺されかけてアメリカに来てはったから、よっぽど怖かったんですね。両手でこう私たちの手を一つずつ取って『自分はユダヤ人でヒトラーに殺されかけて怖かったから、ヒトラーをなんとかできないかと言うたのが原爆になった。罪もない日本人を殺して申し訳がない』。そうゆうて泣かはった。私たちは『あなたが悪かったんじゃありません、日本が戦争の仲間入りしたからいけなかったんです』と話したんです」

 ●人生いろいろ

「いろんな……ことがありますわ、ほ、ほ、ほ。あの翌年、コロンビア大学に招かれてニューヨークに引っ越してすぐ、スウェーデンからノーベル賞を差し上げたいからきてください、というのが来たんです。支度がもう大変で。どうぞどうぞ、お茶召し上がって」
スミさんは、アインシュタイン博士との出会いを何百回も語ってきた。湯川博士の生前はともに、そして死後は意を継いで、核兵器の廃絶を訴えてきたからだ。90歳をとうに超えた今でも、依頼があれば車椅子で講演に赴く。
よく笑うスミさんを、部屋に飾られた壮年の湯川博士の絵が見守っている。1961年、湯川博士は世界連邦世界協会(本部ニューヨーク)の会長に就任。「世界連邦は昨日の夢であり、明日の現実である。今日は明日への一歩である」と語るほどの信念だったが、その歩みは順調ではなかった。亡くなる年の1月、毎日新聞の対談でこう語っている。
「私は常に世界連邦の理想を説いているのだが、人類が平和になるというこんな簡単なユートピアの原理が科学者たちにはわからない。戦争はばかげたことだという大きな考えがわからない。社会のことは社会科学者に任せたらいいという見識の狭さがある。先進国の学者の方がその傾向が強い。それはいかんと私は強く警告しているんです」
日本という国は、自分の利益だけを考え、社会に対して黙っている人が得するようにできているのかもしれない。だが、博士はそんな生き方を選ばなかった。どこかの政治家の「人生いろいろ」とは深さが違う。

 ●逃げられない

でも、大人も若者も、私自身も、とりあえず今日、自分さえ楽しければ音楽を聴いたり、おいしいものを食べたり、幸せに過ごせればほかのことは考えない……そんなふうになりがちだ。
「そうですか。けど、みながそういうふうにできるようにするにはお金や資源がいりますでしょ。今、イラクにも自衛隊とかたくさん軍隊が行っていて、そういうものにもものすごいお金がいります。それらをすべて生活の方に回したら、生活がえらい楽になる。そう説明すると『なるほどそやなぁ』と分かる人には分かってもらえますな」
「水爆とかどんどん強いものができてきましたわね。こんなものでやりあったら人類、地球は滅びてしまうかもしれん。『どこへ逃げたらいいやろか』って、地球が滅びたらどこの国もないようになります。実際のその威力を知ったら怖さが分かりますな。世界的にも分かる人には分かってきたようやな、近ごろな。始めごろは(世界連邦は)夢やみたいに言っていたけど」

 ●便せん

確かに、欧州連合(EU)は統合を果たし、国際刑事裁判所(ICC)も発足した。日本の国会でも衆院が8月2日、世界連邦実現に努力するとの決議案を可決。だが一方で、憲法9条の改正論議も活発化している。
憲法9条を世界連邦の大会で紹介すると『えらい、いいな』『それを手本にしよ』って世界の人が言うてくれる。それなのに日本がやめたんでは困るとゆうてるとこです。せっかくいいもの持っているのに、また外国に上手して……アメリカに上手すんのかな、政治の人は。おかしいです。変えられんように努力しているとこですけど。だからほんとに……。どうぞ、これ(コーヒー)先に飲みましょうや。お菓子もおいしいから、よろしいもの取ってな。核兵器の廃絶と世界平和を訴えた『ラッセル・アインシュタイン宣言』(1955年に湯川博士ら11人の学者が署名)な、あれが実現されていたら、今のような心配はいらんのですけど。なかなか。いいことって、なにしてくれませんなぁ」
ひざには言いたいことをメモした便せんが何枚も。あふれるように語りは続いた。

 ●自由時間

「宇宙に星がたんとあるでしょう。そのなかで、生きている、生き物が生活しているのは地球だけでしょ。地球が、その中でやりあって、戦うようになったらしまいやな」
それにしてもすごい熱意、すごいパワー。思わず「何か健康法は」と聞いてみた。
「最近主治医が言いはってな、食事の後30分だけあおむけに寝て、胃がこなす間、胃が働きやすいようにしなさいよって」。あとは極めて規則正しい生活。朝起きて食事して、食休みしてリハビリ。それから仕事。「朝は7時、夜は大体9時すぎぐらい。テレビは時間があったら。なかなか自由な時間がないから、ほ、ほ、ほ。原稿書いたりすると時間がかかるでしょ。今もう5時なの? お金やら資源やら知恵やらを、人を殺すものにたくさん使わずに、生活の方ばかりに使ったらよろしいわな。私、時間がいくらでもほしいな」

 ●ハトのサブレー

長居を謝して門に向かうと、キンモクセイの香りが降ってきた。薄暗くなりかけた中、湯川博士もよく散歩したという下鴨神社の糺(ただす)の森に足を運んだ。樹齢200〜600年もの木々が立ち並ぶ森で、博士は何を考えたのだろう。人は何のために生きるのか、博士なら「自分が選んだもののために生きる」と言い切ったのかもしれない。
鴨川沿いに戻った時には日が落ち、いわし雲のかかった西の空に大きな大きな一番星が輝いていた。バッグの中にハト形のサブレーが1枚、入ってるのに気がついた。スミさんが最後にすすめてくれ、家の方が入れて下さったのだろう。
割れないように、ハンカチで包んだ。【太田阿利佐】

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 ■人物略歴

 ◇ゆかわ・すみ

1910年、大阪市生まれ。22歳で秀樹氏と結婚、息子2人を育てる。世界連邦世界協会婦人委員長などを歴任。現在、世界連邦運動名誉会長。著書に「苦楽の園」。

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 ファクス03・3212・0279

 t.yukan@mbx.mainichi.co.jp

毎日新聞 2005年10月21日 東京夕刊


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