終戦記念日に考える 浅はか過ぎないか
熱狂の時ほど際立つ静けさ。五輪さなかの今日、終戦記念日、お盆です。鎮魂の折節に「何をしてるんだっ、おまえたち」と、死者の叱声(しっせい)が心耳に響くことし…。
イラク多国籍軍への自衛隊参加をわが首相、国内には黙ったまま米大統領に約束してきました。
自民党国対委員長は米国務副長官から「日本国憲法九条は日米同盟の妨げ」などと、改憲援護の内政干渉めいた弁を承ってありがたそう。
入れ替わりに訪米の野党民主党代表は、副長官発言に抗議するどころか「改憲して、国連安保理決議があれば海外での武力行使を可能にしたい」とぶって帰る。■錯覚が憲法を貶める
とうとうここまで来てしまったかと、近き遠き日本の来し方を思うにつけ胸ふさがる思いがあります。
もう戦争はしない、戦力も持たない、と憲法で宣言し、平和主義に徹して焦土からの復興再建へ踏み出した日本でした。やがて国際緊張下の米戦略に組み込まれて、政府は九条の解釈を変え、自衛隊を生み…。
でも、不戦は通しました。集団的自衛権を行使せず、実質はともあれ非核三原則を看板にし、海外派兵を長らく禁じ、改憲阻止の国会“三分の一”勢力も何とか維持されたのでした。そう、ついこの間までは。
平和路線を敷き、守って天界にいる先人たちはいま、慨嘆していましょう。何より、戦後日本の支柱である憲法を、なぜ貶(おとし)めるのか、と。
日米の同盟関係が重要不可欠であることは戦後史の到達点から見れば言うまでもなし。でも、それを至上、唯一無二の価値と思い込み、日米安保の体制、条約を日本国憲法より上位とする錯覚が、例の米高官だけでなく日本の政治家にも多そうです。どこに憲法規範を超えていい同盟、条約なんぞがあるものか。
憲法が古びて現実に対応できないという漠然、単純、ゆえに平易な決まり文句が、国民を改憲容認へ押し流しつつあります。
「浅はかな…」とつぶやいて天界の“声”は説きます。憲法を追いきれずその理念を実現できないままの現実の何が、進んだと言うのか。憲法が問題をはらむのではない。憲法を六、七割しか守れず生かさず、残る三、四割の実現を怠ったままでいる政府、国民が問題なのだ、と。
例えば、知る権利、環境、プライバシーの語がない憲法を古いと思う人も、憲法が基本法であることを忘れていないか。基本法には何もかもを書きはしない。憲法の意を体した個別法に委ねるもの。「法律をきちんと作れていない怠慢を棚に上げて憲法をののしるなかれ」と“声”は一段と高くなりました。
■弊が甚大な対米追随
「復興人道支援の派兵だ。何が悪い」と首相。そんな限定的任務をイラク戦場の多国籍軍として貫徹できるかは疑問です。がともかく、そうした支援、平和貢献の活動を、武力抜きで多彩に率先展開する知恵を、日本政府はなぜもっと絞ってこなかったか。米国に遠慮したか、まさに平和憲法具現の手抜きです。
対米追随、対米一辺倒は弊甚大でしょう。それこそが憲法の「妨げ」をする。対等で互いを利し高め合う真の同盟関係、それを損ないさえする。相対的に世界、アジア、隣国の軽視をもたらし、国際的な対日信頼、敬意が遅々として育たない。
米国の支援と指示に国民の欲求意欲・勤勉が加わって、物質的豊かさは獲得できた日本。米国には一方で、対日内需拡大要求に従ってのバブル景気と、続く長期不況のリスクも負わされたのですが…。
米国頼み・まかせのゆゆしい弊が日本人、特に政・官の判断力衰退です。自主外交力を欠いたばかりか万事、大きく正しい判断が不得手になりました。
そんなおまかせの姿勢は国民の性向にもなっていないでしょうか。
数をたのんだ与党のおごり、野党の非力で重大案件が審議不十分なまま次々に片付けられ、あれよあれよで既成事実が重なっていく。それをとがめる手段も意欲も持とうとしない国民が増えました。
政治がどうあれ暮らしてはいけるからと政治離れ。自民党がちと懲らしめられた参院選でも、四割もあった投票棄権組の無気力、沈黙が気掛かりです。
豊かさと安楽を求めた果てに何事も易(やす)きにつき、つらさ、難しさを忌避する人々。興味は自身か周辺に縮み、政治も含めて大きなことに無関心。で、判断力も失っていく。
■目を上げて視野広げよ
政・官・民なべて目先にこだわり、視野が狭く短く、理念を笑ううち志も低くなりました。大地に踏ん張らぬ漂流人間が目立ちます。情報洪水の中で見分けがつかず、軽いことにこだわり惑わされて、重きを見失う傾向も。虐待だの、情動的なバッシングの風潮だのは一例です。
「身辺ばかり見ていず、目を上げよ。遠く広く時空をにらんで、じっくり考えてみよ。この国をおまえたちの代で壊すな」−切々とした“声”を聞いた気がしました。
東京