【ねこまたぎ通信】

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 忘れちゃ遺憾ですな.

遺族の願い届く 原爆資料館に中国人被爆者の名前

http://www.china.org.cn/japanese/241011.htm


日本の広島平和記念資料館原爆資料館)はこのほど、第2次世界大戦中に日本に強制連行された中国人労働者3人の名前を被爆者名簿に加えた。原爆資料館に中国人の名前が記されたのは初めて。新華社の5月31日付け報道を「京華時報」が伝えた。
資料館職員は当日、被爆者名簿に3人の名前と写真を加え、一般公開の準備も始めた。
共同通信社によると、名簿に追加されたのは楊煕恩さん、徐立伝さん、呂学文さんの3人(いずれも故人)。1944年に旧日本軍によって強制連行され、日本の西松建設発電所建設に従事させられた。翌年8月6日の米軍による広島への原爆投下で3人も被爆。当時22歳の楊さんは即死し、徐さんと呂さんも被爆した。除さんは1992年に70歳で、呂さんは2003年に82歳で死亡した。
遺族らは原爆資料館に3人の名前を加えるよう要求し、日本の民間団体からも支持を受けていた。
人民網日本語版」2006年6月1日

「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」
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橋爪文
日本ペンクラブ:電子文藝館


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