【ねこまたぎ通信】

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アラファト 逝く

アラファト議長死去 パレスチナ解放闘争を指導 独立国家の悲願かなわず

http://www.tokyo-np.co.jp/00/detail/20041111/top_____detail__001.shtml

 【パリ11日共同】悲願の独立国家樹立を目指し、イスラエルによる占領からの解放とパレスチナ独立の闘争を長年にわたり指導したパレスチナ自治政府議長のヤセル・アラファト氏(パレスチナ解放機構=PLO=議長)が11日、パリ郊外のペルシー軍病院で死去した。75歳だった。死因は明らかにされていない。

 軍病院の報道官と自治政府のアリカット交渉相がそれぞれ公式発表した。死亡時刻は11日午前3時半(日本時間同11時半)。葬儀は12日、カイロで行われる。

 ロイター通信は、議長の遺体が12日にカイロに送られ、埋葬のため同日、パレスチナ自治区のラマラに送られると報じた。交渉相は米CNNテレビで「首都エルサレムに埋葬されるまでの間、ラマラに一時的に埋葬される」と述べた。

 「民族の象徴」だったアラファト議長の死でパレスチナ情勢や中東和平の行方が混迷するのは確実だ。議長はイスラエルとの歴史的な和平に踏み切ったが、東エルサレムを首都にヨルダン川西岸ガザ地区を領土とするパレスチナ国家を樹立する夢はかなわなかった。

 自治政府の暫定議長には法律に基づきファトゥーハ評議会議長が就任するが、60日以内に行われる予定の選挙ではPLOナンバー2だったアッバス前首相が最有力視されている。

 2001年12月以降は、イスラエルシャロン首相によって西岸ラマラの議長府に軟禁状態に置かれた。今年10月29日、健康状態が悪化しパリ郊外に移送され入院。11月4日、容体が急変し昏睡(こんすい)状態が続いていた。

 カイロ大在学中からパレスチナ解放運動に参加し、1950年代後半、後にPLO主流派となるファタハを創設。イスラエル建国で故郷を追われ、67年の第3次中東戦争西岸やガザをイスラエルに占領されたパレスチナ人の苦難を世界に訴えた。

 93年9月、敵対関係にあったイスラエルのラビン首相と暫定自治宣言(オスロ合意)に署名。94年、先行自治区となったガザに二十数年ぶりに帰還、ラビン首相らと同年のノーベル平和賞を受賞。96年の自治政府議長選挙で圧勝した。

 しかし2000年夏、パレスチナ紛争解決を目指したクリントン米大統領を仲介者とするバラク・イスラエル首相との交渉が決裂。当時野党党首だったシャロン首相のイスラム教聖地訪問強行をきっかけに本格的な武力衝突が再燃した。

 01年に発足した右派シャロン政権はオスロ合意崩壊を目指し「自爆テロ根絶」を掲げ自治区への軍事侵攻を繰り返し、米国のブッシュ政権とともに同氏の政治力をそぐ「アラファト外し」を進めていた。

私信:ぶっちゃー,ごめん,あのレポート読んで,これについては,おれ何も書けないわ.多分,もう少ししたら,たぶん,すごく怒り出すかも知れないけど.