【ねこまたぎ通信】

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真実はどこにあるのか?

東京新聞 学校占拠事件 狂気の背景

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040919/mng_____tokuho__000.shtml

 彼らは銃を手に生まれてくる−。チェチェン人に対する、そんなロシア人の固定観念を、さらにかたくなにさせたのが北オセチア共和国・ベスランの学校占拠事件だ。だが、三百三十人余りの犠牲者を出したせい惨な結末を招いた非は、チェチェン独立派と目される武装集団だけにあるのか。「狂気」の根をあらためて、検証した。 (外報部・稲熊均)

 ロシア司法当局が事件をチェチェン独立派の犯行と断定した七日、ロシア紙ブレーミャ・ノーボスチェイにこんな証言が載った。

 「彼はチェチェンで逮捕され服役しているはずだ。なぜ、あんな悪事(学校占拠事件)に加われたんだ」

 「彼」とは犯人三十二人のうち唯一の生き残りとされ、当局に拘束、起訴されたクラエフ被告(24)だ。証言したのはチェチェン共和国民警部隊の副司令官。テレビに映し出された同被告を見て、刑務所にいるはずの人物が実行犯に挙げられている疑問を口にした。

 同被告はテレビでは犯行を否定していたが、取り調べでは、事件に加わっていたことを認め、チェチェン独立派のバサエフ野戦司令官マスハドフ元共和国大統領に指示されたと供述。これが事件の黒幕を特定する決め手となった。

 治安部隊突入のきっかけとなった体育館での爆発についても、ロシア司法当局は、犯人側が爆発物の配置を変えようとした際に偶発的に起きたと断定した。さらにクラエフ被告の供述から、そもそも「犯人側の最終的な目的は人質とともに全員が死ぬことだった」と結論づけている。

 しかし、治安部隊の突入直前まで犯人側と交渉に当たっていたイングーシ共和国のアウシェフ前大統領は話し合いの余地はあったことをロシア紙に明かしている。校舎内に入った同前大統領は犯人側から、チェチェンからのロシア軍の撤退などの要求を書いたプーチン大統領あての手紙を受け取り「あんたらの手紙は必ずロシア大統領に届けられるから」と繰り返した。

 その上で、アウシェフ前大統領は、いくつかの説得材料を得て、三日夕に、犯人側との直接交渉に臨む予定だった。「彼ら(犯人)の方だって、自分らの携帯電話番号を教えて、ロシアの高官の誰でも電話をかけてこられるようにしていたんだ」(同前大統領)。だが、交渉開始の数時間前の同日午後一時すぎ、治安部隊が突入、「すべてが水泡に帰した」(同)という。

 プーチン政権には「テロリストとは交渉せず」の原則がある。しかし、人質の解放に道を開く第三者の仲介をもロシア治安当局は嫌っていたようだ。それは、もう一つの「事件」も示唆している。ノーバヤ・ガゼータ紙の女性記者ポリトコフスカヤ氏が今回の事件現場に向う機中で、出された紅茶を飲んだところ重体となった“毒殺未遂事件”だ。

 同記者は飛行機に乗る直前、ロンドンのマスハドフ派と連絡をとり、マスハドフ氏自身が人質解放のため犯人側を説得する意志のあることを確認している。彼女自身、こうした情報などを材料に、犯人側との仲介に入る意志があった。

 実は、ポリトコフスカヤ記者は、二〇〇二年十月のモスクワ劇場占拠事件でも犯人側との交渉に当たっている。チェチェン問題を追い続けるジャーナリストの林克明氏は、彼女へのインタビューで、この交渉の詳細を聞いている。

 「犯人側の要求は当初、ロシア軍のチェチェン共和国からの完全撤退だったのですが、彼女は交渉で、チェチェン共和国内の一地区からのロシア部隊撤退にまで譲歩させ、撤退の動きが確認できた段階で人質全員を解放するとの妥協案を引き出した。しかし、その四時間後、ロシア特殊部隊の突入で、百二十人を超す犠牲者が出るわけです」

 プーチン政権がチェチェン独立派との交渉を避ける理由は、一九九五年六月のロシア南部ブジョンノフスク病院占拠事件の「教訓」からといわれる。バサエフ野戦司令官が直接指揮したこの事件での交渉により、ロシア軍との停戦協議開始という合意を引き出した。

 バサエフ野戦司令官は九六年六月、本紙との会見で「国際的にチェチェンは忘れ去られかねない民族だ。われわれが仕掛ける作戦の狙いはロシアが招いたチェチェンの惨状を世界に知らせることだ」と話した。

 実際、第一次チェチェン戦争では市民を中心に約八万人の死者を出す悲惨な実態が明らかになり、エリツィン政権には国内外から非難が集まり、独立派が勝利した。

 その「反省」からかプーチン政権のチェチェン政策は「情報統制」に重点が置かれている。第二次チェチェン戦争開始直後の九九年十月には当時、首相だったプーチン氏はテレビでこんな言葉を発している。「危険なのはテロリストではなく、ジャーナリストだ」

 林氏は「発言の直前、ロシア軍はチェチェン避難民の列を空爆し、数十人の死者を出している。これを目撃し世界に発信したジャーナリストに激怒したとみられます」と解説する。

 第二次チェチェン戦争のきっかけとなったのは同年九月の連続アパート爆破テロだ。チェチェン武装勢力の犯行とされているが、不明な点も多い。ロシア治安当局の関与を疑い取材中だったノーバヤ・ガゼータ紙のシェカチヒン編集長は食中毒死している。そのほかにもチェチェン問題の真相を追う下院議員らがなぞの死を遂げている。

 これまで十五回、のべ百八十日以上チェチェンで取材に当たってきた林氏は、「拷問や虐殺の証言はいくらでもある。ロシア軍の契約兵には、軍務につくことを条件に刑務所から釈放された犯罪者も多い。彼らによる略奪や強姦(ごうかん)も聞くが、報じられることは少ない。自分も今はチェチェンに入れない。チェチェンは密室になっている」と訴える。

 学校占拠事件で武装集団には女性兵士がいた。「黒衣の寡婦」と呼ばれ、戦争未亡人とみられる。だが、「未亡人」という表現は正確ではない。

 林氏は「チェチェンの女性は、兵士である夫が死ぬことは仕方ないと考える。しかし、ロシア軍の攻撃などで子どもが死んだことに大きなショックを受けている。一人息子が死んだ場合は、武装勢力への参加を認めている」と話す。

 イングーシに避難するチェチェン兵士の母親委員会の元メンバーはこういう。

 「今は言論が封じ込められ、何の訴えも発信できない。学校占拠は許し難い犯罪だが、誰が何のために起こしたか。真相が解明されなければチェチェンはただのテロ民族にされる。本当に忘れられた民族となる」

 ◇メモ チェチェンとロシア

 チェチェンロシア帝国に併合されたのは1859年。第2次世界大戦末期には、ナチスに協力したとの理由で中央アジアに強制移住させられた。ロシアからの独立を宣言したことから1994年、エリツィン政権が武力介入、第1次チェチェン戦争が始まる。96年に停戦したが、99年、ロシアの再進攻で、第2次チェチェン戦争が始まる。チェチェンは良質の石油が産出されるほか、カスピ海油田のパイプライン・ルートに当たることから、戦争の背景には多大な利権も絡んでいる。