【ねこまたぎ通信】

Σ(゜◇゜;)  たちぶく~~ Σ(゜◇゜;)

高遠菜穂子 独占ロングインタビュー

本当のことを知ってほしい

「私はイラクの子供たちのもとへ帰る」

インタビュー 森住卓 (フォトジャーナリスト)
週刊現代』vol.46 (No.23) 2004/6/12号 p.180-181 (5/31 発売) 講談社 \324+税


[ヘッダ] 「ストリートチルドレンの支援に人生を捧げようとしていた高遠さんが, なぜあれほどバッシングを受けなければならないのか. 本当に悪いのは誰なのか. 我々は忘れてはならないのです」(森住氏)

解放から1ヶ月半. 依然体調がすぐれず自宅静養する高遠菜穂子さんが信頼する森住氏のロングインタビューで心境を語った.
[写真] 少し痩せたが時折笑顔も見せてインタビューに応じた高遠さん

[本文] 家に戻って以来, ほとんど外出はしていません. 気晴らしでテレビをつけると, バラエティ番組を見ているはずなのに, 拘束中の映像が突然出てきてしまったりする. 心の準備ができていない状態で見ると, もうダメです. 心臓がドキドキして脈拍が跳ね上がる. 気持ち悪くなって, 吐いてしまう.

5月20日に代表取材で会見する前日も質問を読むだけで心臓が躍り出し, 体中にジンマシンが出ました. 皮膚が世界地図のように腫れ上がって, 痒くて……. カメラはやめてとか注文をつけて, 申し訳なかったと思います.

送られてきた手紙の中に,

「記者会見はまだか ? このまま逃げられると思うなよ」

と書いてあるものもありました. 脅迫めいたのもあったけど, 少なくとも私が話すことが待たれていると思い, 会見に臨みました. 今日は会見では話し切れなかったことをお伝えしたいと思います.

細かい経緯は郡山さんと今井君が説明したので, 私は特に記憶していることを話します. ガソリンスタンドでムジャヒディン (イスラム戦士) に囲まれた時, 何よりショックだったのは,その場にいた普通のイラク人たちが誰ひとり私たちを助けようとしなかったことです. 50人くらいの人々が, 一瞬にして敵になった.

「ヤバーニ, ムーゼン (日本人は悪い!)」

と口々に叫んでる. どうして, と思っていたら, 人垣の向こうから RPG (ロケットランチャー) を担いだ人が走ってきた. ああ, もうダメだ, 絶対に死ぬと思いました. ガソリンスタンドごとふっ飛ばされると思ったんです.

その後, 拘束映像の舞台となった部屋に到着するまで, 目隠しされていろいろな場所に連れて行かれました. 行く先々で, 自分たちはイラク人の味方だって説明しなきゃならない. 農道に車を停め, ずっと武器を突きつけられたりしました.あちこち連れ回されその度に武装グループは合流して増えていく. 暗闇の中で恐怖も増大していく.

例の部屋に着いたのはもう夕方でした. ようやく英語を話せる (司令官) と会話ができ, 私たちがスパイじゃないこともわかってもらえた. 「悪かった. 命は保証する」と食事も出してくれ, 少し安堵した瞬間でした. 突然武装した人たちがドカドカ部屋に入ってきたんです.

ジェネラルが「いや, 違うんだ」とか説明してくれたけど, ムダでした. 彼らは統率の取れている集団ではなかった. 司令官といっても全体のリーダーではなく,いくつかのグループが寄せ集まっているだけのようでした.

入り口からビデオを持った人が現れると彼らも俄然ヒートアップして「クライ ! (泣け !)」と叫ぶ. 目隠しされて, 殴ったり蹴ったりする音と今井君の「イテッ」って声が聞こえ……. 今度こそ殺されると思って, 泣いてしまったんです.

ジェネラルに「泣いて」と頼まれたのは事実ですが, 自作自演と言われたのには驚きました.犯行グループが「3人は立派に任務をこなした」と語ったなんて雑誌記事もありましたが, 事実はひとつ. あんなことを計画できるほど, 私は大物ではありません.

その後, ジェネラルからは詫びを入れられまた命の保証をされた. それで少しホッとすると, また目隠しされて移動. 次に目隠しを取ると, 目の前にカラシニコフを持った二人組みが立っている. 小さな希望と大きな恐怖が交互にやってきて本当に辛かった. 最初の2日間は, ひたすら命乞いをしていた気がします.

上京が変わったのは, 3日目からです. 周囲360度が地平線, 土漠の真ん中にある小屋に押し込められた. 見張り役も, 武装兵ではなく農民. お爺さんと青年二人で, 銃は持ってるけど, 死の恐怖はかなり軽減されました.

代わりに訪れたのが「目的のわからない監禁生活」. これも精神的にはきつかった. 窓を塞がれてるし停電がちで部屋は真っ暗. 一日がものすごく長いんです.

私たちが徐々に元気を失うにつれ, 見張りの老人は心を痛めていたようでした.運動の機会がないので, 部屋の中を連なってグルグル回ったり, 夜, 私がアルコールランプの明かりで壁に犬の影絵を作ったり, そうした姿を見ては, 老人は首を振っていた. 精神がおかしくなったと思ったようです. その上, 私たちは順番に体の具合も悪くなっていきました.


【私は活動家じゃない】

ある日とうとう私がキレました. 6日目か7日目の夜, トイレに行くために外に出た瞬間, ウワーッて叫んで, 号泣してしまった. 空を仰いで,「アッラー, リエシュ !」, アラビア語で「神よ, なぜだ !」って叫んだのです. 老人は私のことを気の毒そうに見ていました.

その次の日, 夕食の際, 老人がゴザを持ってって, 外に敷いたんです. 来い来いって手招きをする. 「外でご飯食べられるの!?」って, 今井君が驚いたのを覚えています. 私は「一緒に食べよう」と老人を誘いました. 彼はびっくりした後,ニコッと笑って青年を呼び, 二人で隣にやって来たんです.

初めて皆で食事した後, 青年がお茶を持ってきてくれました. 老人は横になって見ている. 思わず,「シュクラン・イラーキ (イラク人, ありがとう)」って言いました. 青年は「シュクラン・ヤバーニ」と返してくれた. 満天の星の下, 素敵な出来事でした.

解放されてから, ムジャヒディンを恨んだ時期もありました. ひどい目にあわされた. でも, 彼らの苦しみもわかる. ある若者は「アメリキ (アメリカ人) がファルージャでダダダダで, イラーキがたくさん死んだ」と, 手振りとわずかな単語で言って, 私を睨みました. 彼らも親や肉親を米軍に殺されているんです.

私が解放後, 一番腹が立ったのは, バグダッド日本大使館で政府の人が口にした一言でした. ムジャヒディンが自衛隊の撤退を要求していたと初めて知った私は, 「撤退なんてするわけない」と即座に思った. それは置いといて, 尋ねたんです. 「今後, 撤退の可能性はあるんですか ?」と. その方は足を組みながら,「あるわけないでしょ, 出したばっかりで. 体裁が整わないでしょう」

という内容の言葉を発したんです. 私, 頭に来て,

「何だ, 体裁って! イラク人の気持ちを知ってるのか」

って叫んでた. その方はびっくりしていました.

私は事件が起こる前から,「自衛隊イラクにアーミールックで来るな」と HPで主張してたし, 首相官邸に「イラクの声」を届けていた. それが「活動家・高遠菜穂子」のレッテルを貼られ, 自作自演説が出てきた要因だと思います. 私は活動家じゃない. イラクの人たちと触れ合うなか, 本音を聞いただけです. 「自衛隊が軍服で来たら連合軍とみなして戦う」って.

反戦なんて大げさな思想じゃありません. あれほど親日的だったイラク人と日本人が戦うなんて想像したくない. 明らかに失敗している占領政策に, 日本人は加担してほしくない. そう思うだけです.

イラクには私を待っている子供たちがいる. 貧血の子, 跳弾が足にめり込んだ子,痔がひどい子, 仕事したくても見つからない子, そしてシンナーがやめられない子. 私はいつか必ず, あの子たちのもとへ帰ります


[関連]

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