【ねこまたぎ通信】

Σ(゜◇゜;)  たちぶく~~ Σ(゜◇゜;)

ファルージャの虐殺

バグダードバーニングbyリバーベンド

2004年4月9日金曜日

1年後__2004年
4月9日

 今日、イラク操り人形評議会が”建国記念日”といって祝うこの日は、”ファルージャ大虐殺”の日として記憶されるだろう・・・ブレマーは、ついさっき休戦を命じ、爆撃は停止されると宣言した。しかし、爆撃は、いまこれを書いているあいだも続いている。ファルージャでは3百人以上が死んだ。市のサッカー場で死者たちの埋葬が始まった。墓地の近辺への立ち入りを禁止されているからだ。死体は暑さで腐敗し始めていて、人々は到着するとすぐ、なんとか埋葬しようと必死だ。かつて若者の足が走り歓声に満たされたフィールドは、男たち、女たち、こどもたちの埋められた一大墓地と化した。
 ファルージャの人々は、これまでの48時間、女性と子どもを市から出そうと一生懸命だった。しかし、市外へ向かう道路はすべてアメリカ軍によって封鎖され、たえまなく銃撃され爆撃されている・・・私たちはテレビを見て泣き、叫んでいる。病院は犠牲者であふれている・・・腕や足を失った人たち・・・愛する人を失った人たち。薬も包帯も足りない・・・これはアメリカ軍のしたこと、何てひどいことするのか。これは、集団懲罰だ・・・これが、私たちのおかれた混乱状況への解決法なのか? これが、作戦の’核心’たる’心理戦’?

 食料や水、薬や血液や医者を積んだ輸送車隊が市内へ入って支援しようと、きのうファルージャへ向けて出発した。私のうちの近所でも、ファルージャへ送る小麦粉や米の袋を集めていた。E(弟)と私は、家中ひっかきまわして、小麦粉の大袋ひと袋、小さめの米の袋ふたつ、レンズ豆やヒヨコ豆などの混合数キロを見つけた。トラックが任務を果たし人々の助けになることを心から願っていた。それがなんということだ、あるイラク人の医者から、輸送車隊はすべて市内へ入ることを禁止されたと、たったいま聞いた・・・いまは女性とこども、重病の人や負傷者を市外へ出そうと一生懸命だという。

 南部も状況は同じだ・・・犠牲者の数は増え続け、加えて略奪と無秩序が広がっている。バグダードでは、怒りがはっきりと形をとって表れている。人々の顔はとつぜん悲しみに満ちてこわばり、ことばで言い表せない無力感が感じられる。水面下に捕らえられて、もがいてももがいても水面へ届かないのに似ている。これら破壊と荒廃のかぎりを見ることは。

 フィルド広場(例のフセインの銅像が倒されたところ)は立ち入り禁止だ。アメリカ軍は怒った群衆とデモを恐れているから・・・だけど関係ない。みんな家にじっとしているのだから。もう数日間もこどもたちは学校に行っていないし、大学でさえ誰もいない。バグダードの状況は、ひじょうに不安定で、近所の男たちはまた巡回監視をしようと話している・・・占領の初めの頃とまったく同じだ。

 役たたずの統治評議会はどこ? どうして誰ひとり、南部とファルージャの殺りくを非難しないの? どうして彼らは、あの大馬鹿ブレマーに大反対して、こんなことは間違ってる、間違ってる、間違ってるってとことん言わないの? 彼らの一人でも、すこしでも男らしければ、いや人間らしければ、「直ちに停戦しなければ辞職する」と迫ることもできただろうに・・・人々は怒っている。現在のこの事態は、彼らがイラク人でないことの証明だ__イラク国民の生命と生活を守るためにイラクにいるのではないということの。

 アメリカやヨーロッパのテレビ局は、死んでいくイラク人を見せない・・・包帯に包まれあるいは血を流している女性や子どもたちを見せない__血の海と腕や足が散らばるただ中で息子の痕跡でもないかと探す母親。死人と死にかけた人々であふれた病院も見せない。アメリカの機嫌を損ねたくないからだ・・・しかし、見る”べき”だ。アメリカよ、見るべきだ。自分たちの起こした戦争と占領の代価を__アメリカ人が故国を何千キロも離れたところで戦争をしているのは、フェアでない。アメリカ人は死者たちをこぎれいな棺に入れ国旗でおおう。対して私たちは、死者たちの断片を床からかき集めなければならないのだ。そしてアメリカの銃弾が、誰だかわからないほど愛する人の遺体をめちゃめちゃにしていませんようにと願うのだ・・・

 一年たった。そして、ブッシュは望んだものを達成した__今日、この日のことを歴史は記憶し、イラク人は決して忘れないだろう。人類史上おびただしい量の血が流された日々のうちの一日として。
リバーによって掲示 午後4時32分

占領の日__2003年4月9日

 この数日、私は、心が記憶の小道へ迷いこんでいかないよう苦しい努力をしてきた。バグダードが炎に包まれる映像が映しだされるたび、チャンネルを変えた。ラジオが占領の初めの日々のことを言いはじめると、スィッチを切った。そして、家族の誰かが「おぼえてる? どんなに・・・」と話しはじめると、静かに部屋を出る。ええ、おぼえてるわ。でも、私は、思いだしたく”ない”のだ、人生でもっともひどかった日々を。コンピュータみたいに、記憶を選んで’デリート’できたらいいのに・・・出来るわけはないけど。

 今日は、去年の4月のことを思い出すままにたどってみた。とくに2003年4月9日のことを。この日を、わが操り人形評議会は’建国記念日’にと選んだのだ・・・占領が、ありうること、ではなくなってまぎれもない現実となったこの日を。

 この日は、激しい爆撃で始まった。朝5時、ものすごい爆音で目がさめたのを思い出す。髪の毛はほとんど逆立っていた。家族全員、リビングルームで寝ていた。カーテンが厚くて、その分ガラスが飛び散っても安全と思えたからだ。E(弟)は、即とび起きて、カラシニコフ銃がちゃんと充填されているか確かめに走った。私は、いとこの子どもたちを厚い毛布でしっかりくるもうとした。もう暑くなっていたけれど、毛布は子どもたちをガラスの破片から守ってくれる。一番年長の女の子は、幸いなことに、まだぐっすり眠っていた__夢の中、いや悪夢かしら。いちばん年下の子は、うす暗がりの中で大きく目を見開いていた。彼女が、”だいじょうぶ?” と私の表情を読みとろうとしているのに気づいた・・・私はしっかりと微笑んでみせた。「まだ寝てなさい」。

 ものすごい爆音がいくつか続いたあと、もう寝てはいられないことをさとった。朝ご飯には早すぎたし、それに誰もそんな気分ではなかった。母と私は、起きあがって、荷作りしてあったバッグを点検した。そして、ドアのそばに待機した。バッグは、戦争の初めの数日に備えて詰められていた___丈夫な衣類、水のびん、出生証明書と身分証明書など重要書類、予備のお金。天井が落ちてきたり、アメリカ軍の戦車が大きな車体で近くに押し入てきたときを想定して、バッグはドア近くにおかれていた。天井、戦車どちらの場合も、ドアめがけて走り、バッグを持ち出すと各自に指示が与えられあった。“遅れている人を待ってはだめ。ひたすら走り、バッグを持ち出す”ということになっていた。

 わたしたちの住む地区は、危険地区のひとつだった。頭上を舞うヘリコプター、戦闘機、爆発。本通りを渡った、すぐ向こうの地区には、戦車が押し入り、一晩中、銃撃と戦車の音が聞こえていた。母は、不安げに窓のそばにたって、通りの様子を見ようとしていた。避難すべきだろうか。家にとどまって待機すべきだろうか。どうなるだろう何が起こるのだろう。Eといとこは、近所の人はどうするつもりか聞いてくると言った。

 Eたちは、5分後に戻ってきた。Eは青ざめ、いとこの表情は固かった。近所の誰もが同じだった。どうしていいかわからない。Eは、家のすぐ近くには通りに人影があるものの、バグダードはほとんど空っぽだと言った。私たちは、家を出て、バグダードのむこう側の端にある叔父の家へ行こうと話し合った。が、いとこは、それはできないと言った。道路はすべて封鎖され、橋はアメリカ軍の戦車に破壊され、運よく叔父の家近くにたどり着いたとしても、戦車かヘリコプターに銃撃される危険があるという。家で待とう。

 いとこの妻は、そのときにはすっかり目がさめていた。ふたりの子どもを両わきに座らせて、しっかり抱きしめていた。彼女は、自分の親と1週間も話していなかった・・・電話は通じなかったし、親たちが住む地区へ行くすべもなかった。この大変な事態に、おびえきっていて・・・親たちはみんな死んでしまったか死にかけていると思いこんでいた。なんとか正気を保っているのは、娘たちがいたからだった。

 このとき、私の心は麻痺していて、ただ爆発だけに反応していた。特別すごい爆発のときは、縮みあがり、遠くに聞こえたときは条件反射で感謝の祈りを唱えた。ときどき、頭を使わないでできる家事__水差しに水を入れたり、毛布をたたんだり__ができる程度には、正常になった。が、そうでないときは、麻痺していた。

 いくぶん爆発がおさまったのは、昼近かった。私は、思いきって少しの間外へ出てみた。戦闘機がほしいままに行き来し、遠くに銃撃の音が聞こえていた。それ以外は、不気味な静けさだった。少しして、母も出てきて、小さなオリーブの木の下の私に寄り添って立った。

「うちを出なければならなくなったときのために、知っておいてほしいことがあるの・・・」と母は言い、私は、蚊のような音で飛ぶ’ムシ’というあだ名の、中でも憎たらしい飛行機が飛んでるわと思いながら、ぼんやりうなずいた。あとで、これは、抵抗勢力つまりイラク軍を捜索している’偵察’機だと知った。

 「バッグの中の書類は、家の登記関係と車の・・・」。私は気がついた。母のほうに向き直り聞いた。「どうしていまそれを言うの。私が知っているってこと、わかっているでしょ。一緒に荷作りしたんだから・・・とにかく“お母さん”は全部知っていることよ・・・」。 母はうなずいて認めたが、「ええ、ちょっと確認したかっただけ・・・もしなにか起こったら・・もし私たちが・・」。

 「つまりなにかで離ればなれになったらってこと?」私は急いで引き取って言った。「そう、もし離ればなれになったら・・・その通りよ。どこに何があって、どういうものか知ってなくちゃいけないでしょ・・・」。その頃には、涙をこらえるのに必死だった。やっとのことで涙をのみ込んで、いっそう飛行機に注目した。どれほど多くの親やこどもたちが、きょう、これと同じ会話を交わしているだろうか。母はもう少し話を続けた。恐くて考えたこともなかった、これまで話されたことのない恐ろしい可能性についての話らしい__死後の人生について。死後の永遠の生命のことではない。そんなの聞きあきている。そうではなくて、親の死の後の、私たち(私と弟E)の人生、という可能性。

 戦争のあいだ、つねに死の可能性があった。きわどいところで、家族全員死んでいたと思う瞬間が何回かあった。とくにあの恐ろしい’衝撃と畏怖’のあいだ。しかし、私はみんないっしょに死ぬと当たり前のようにずーと思っていた__家族みんな。私たちはみんな一緒に生き延びるか、みんな一緒に死ぬか・・・これまで話は簡単だった。新たに突きつけられた可能性については、まったく考えたくもなかった。

 二人でそこに座って、母は語り、私はといえば悪夢のような言葉に深く迷い込んでいくいっぽうだった。そのとき、ものすごい爆音がして、窓ががたがたと鳴り、小さな庭のしっかり根をはった木さえ揺さぶられたようにみえた。私は飛び上がり、ほんとに生まれて初めて爆音を聞いてほっとした・・・これで陰気な会話は終わり。私の思いはただ、”なんていいタイミング”ということだけだった。爆音が試合終了のゴングのように聞こえたのだ。

 そのあとは、電池ラジオを聞いて、まわりで何が起こっているのかなんとか知ろうとすることだけで過ぎていった。近所の人から、アーダミヤの大虐殺のことを聞いた。南部でアメリカ軍は無差別に銃撃していること、多くの死者、略奪・・・通りは危険で、危険をおかして出ている人は、ほかの地区に避難しようとしている人か、盗人だ。盗人たちは、死んだばかりのライオンに群がるハゲタカのように、家々や学校、大学、美術館、政府の役所などを襲い始めていた。

 いつしか夜になった・・・私の人生でもっとも長い一日。その日、バグダードでの戦いが終わったことを知った。そして、戦争の恐怖は、新たに直面することになる恐怖に比べればなにほどのものでもなかった。その日、アメリカ軍の戦車を初めて見た。戦車がバグダードの通りに異様な姿を現し進んできた__住宅地区を通り抜けて。

 これが、私の4月9日。何百万人のイラク人にとっての4月9日。私たちほど運がよくなかった人はおおぜいいる__4月9日に愛する人を亡くした人々。銃や戦車やアパッチ(米軍攻撃用ヘリコプター)によって。それを、統治評議会は4月9日をうれしい日として思いだし、”建国記念日”として祝えと言っている。勝利の日として・・・だけど、だれの勝利? それに、だれの国?
リバーによって掲示 午後4時28分

(翻訳 池田真里)