【ねこまたぎ通信】

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 自らの戦争犯罪に直面する日本

自らの戦争犯罪に直面する日本

林博史
関東学院大学教授、
著書『裁かれた戦争犯罪岩波書店、1998年、
BC級戦犯裁判』岩波新書、2005年


 20万以上の死者と無数の強かん被害者を出した有名な「南京虐殺」は、ナチスドイツおよびファシストのイタリアと同盟を結んだ日本が、そのアジア膨張戦争の際に(1)犯した一連の残虐行為の始まりとなった。1937年7月7日に中国に対して開始された戦争は、なかでも多くの死者を出すものであった。占領者は特に華北共産党の戦闘員を撲滅するために広大な地域を無人化した。重慶など中国都市に対する無差別爆撃が数年にわたって実施された。数多くの住民が虐殺され、あるいは餓死し、中国全体の犠牲者は1000万人以上にのぼった。

 休暇あるいはローテーションのなかった日本軍は、日本や朝鮮から大量の女性を「慰安婦」、すなわち兵士のための性奴隷として連行した。中国の女性も同様の運命をたどった。こうした制度の導入にもかかわらず兵士による現地女性への性犯罪は減らなかった。

 日本軍は必要な機密費を調達するためアヘンの生産販売を大規模におこない、中国の住民に荒廃を引き起こした。きわめて非人道的な犯罪をおこなったのは731部隊である。中国東北に配備された同部隊はBC兵器の開発をおこない、ジュネーヴ議定書(2)などの国際人道法に反して実戦でも使用させた。また731部隊は住民や捕虜に対して、生体解剖をはじめとする悪名高いエセ科学実験の罪を犯した。

 日本は中国に100万人の軍を送りこんだが中国政府は降伏しなかった。戦争は長期化し、アメリカとの対立が強まった。日本は自力で戦争を継続するために、東アジア・東南アジアに大帝国を建設することを決定した。物資、特に石油を確保することが特に重要な問題であった。1941年12月日本はアジア太平洋戦争を開始し、第二次世界大戦は文字通りの「世界」大戦になった。

 シンガポールを占領した日本軍は数万人の中国系住民を虐殺した。日本軍は抗日活動をする可能性のある者たちを事前に殺害したのである。東南アジア各地において、矛先に挙げられたのは活動家だけではなかった。「抗日分子」と疑われた者は殺害された。戦争末期には、連合軍と内通しているとされた住民がフィリピンやビルマなどアジア各地で大量に虐殺された。

 初期の軍事的勝利は大量の捕虜を生みだした。欧米人捕虜は、タイとビルマを結ぶ全長415キロの泰緬鉄道などで強制労働を強いられ、15万人の捕虜のうち4万2000人あまりが死亡した。生き残った者も飢えと病気のうちにあった。日本の外務省はジュネーヴ条約(3)を準用すると連合国に約したが、それを遵守する意志はまったくなかった。しかも、白人捕虜を働かせることにはイデオロギー的な側面があった。日本の威信を植民地民衆に見せつけようとしたのである。

 東京は朝鮮などの植民地民衆に、天皇への崇拝や日本語強制をおこない日本への同化を強制した。兵力不足を補うために徴兵制によって20数万人を動員する一方、100万人以上の労働力を日本とその周辺地域に強制連行し鉱山や工場、建設現場で働かせた。多くの朝鮮女性が「慰安婦」としてアジア各地におくられた。植民地支配による収奪の結果、日本に渡航し、戦後も日本に残った朝鮮人は、その子どもや孫も含めて、日本国籍を取得しない限り公民権がない。60年を経た今日なお差別され続けており、公務員になることもほとんどできない。

 日本はアジア民衆を蔑視していたため、国際条約に反してかれらを残虐行為の対象とした。また欧米秩序への反発は自由や民主主義、人権、国際法などの価値を否定することとなった。捕虜虐待は大衆に叩き込まれていた意識の反映でもあった。捕虜になることは恥ずべきことであり、天皇のために命を捧げることは最高の名誉である、といった意識である。同様に、軍は兵士が人間的な感情を押し殺して殺人マシーンになるように訓練した。

 軍の内部では上級者による殴打、ビンタが日常的におこなわれていた。非合理な暴力にも耐えなければならなかった。新兵は、一種の儀式に座すことになった。そこでは現地人が銃剣で刺し殺される。この試練に耐えられなかった者は一人前の兵士とは見なされない。こうした暴力によって日本軍兵士は非人間化され、占領地民衆や捕虜に対してより一層残虐になっていった。

 日本軍は物資を現地で調達することにしていたため、その行軍は略奪を伴った。上層部が補給体制を組織しなかったため、飢えた兵士は抵抗する農民を片端から殺し、女性を日常的に強かんした。略奪する村もないジャングルや無人島では多くの将兵が餓死した。ガダルカナル(4)やビルマなどはそうした例である。将兵の戦死者230万人のうち、半数(あるいはそれ以上)は栄養失調による死者であるとの研究も最近出されている。日本軍将兵の生命さえもきわめて軽視されていた。他国民の生命がさらに軽視されたことは言うまでもない。

 日本軍がおこなった侵略戦争による死者は、中国で1000万人以上(2000万人という説もある)、フィリピンで110万人など合わせて2000万人にのぼる。日本側の死者は310万人である。

 アジア民衆への差別意識は第二次世界大戦よりずっと以前から培われていたが、戦争によってさらに深く浸透した。東南アジアの住民は「土人」と呼んで最も下に見ていた。それゆえ戦争中の暴力行為は、すでに朝鮮、台湾でおこなわれた植民化の過程の延長としてとらえるべきである。こうした非白人に対する差別と暴力とのつながりは、他の先進諸国にもしばしば見られるものである。

 ただ日本が1930年代と1940年代に、人権や自由の原理自体を欧米起源の概念であると見なして否定したことが、そうした残虐行為をさらに悪化させたといえるだろう。天皇イデオロギーの急進化が進むと、天皇に対立するものは反逆者として慈悲なき懲罰の対象となった。日本軍内部での兵士の非人間的扱いも頂点に達していた。当時の日本が連合国以上に多くのひどい犯罪をおこなった理由はそうしたところにあるだろう。

 こうした残虐さは、連合軍の側のすさまじい報復を招いた。その筆頭が広島と長崎への史上初の原爆投下(死者20万人余)であり、一夜にして10万人の市民が殺された東京大空襲である。また太平洋諸島で少なくない日本兵がアメリカ兵によってその場で処刑されたことも近年知られるようになってきた。日本による残虐行為は一定の意図的なものはあった(同様のことを被占領国の大部分でおこなった)が、一元的な命令系統によっておこなわれていたかどうかは疑問である。その点はナチスドイツとは違っている。そのことは、多くの日本人が、こうした残虐行為を自らの責任と受け止めずに、戦争中のやむをえない出来事ととらえていることにつながっているように思える。

 戦後、占領国となったアメリカは、日本を忠実な同盟国にするために軍は切り捨てたが、天皇を含めた多くの指導者や官僚を温存した。冷戦状況のなかで、日本はアメリカの庇護の下に自らの戦争責任と向き合うことなく、戦後復興を進めることができた。日本によって最もひどい被害を受けた中国とは1972年まで敵対関係にあった(5)。

 日本人が半世紀前に自らの名の下にいかに大きな被害をアジア諸国に与えたのかを自覚し始めるようになるのは、冷戦が終わった1990年代になってからだった。生き残った被害者、特にアジア各国の「慰安婦」が声を上げることができるようになり、戦争犯罪研究もようやく進むようになった。こうした犯罪のいくつかが少しずつ人々に知られるようになり始めた。

 この数年、「歴史修正主義者」がかまびすしくなったのは、こうした変化に対抗しようとしてのことである。争点は歴史だけではない。戦争放棄を約した憲法を変える条件を作り出そうとしているのである。これらのイデオローグは日本がおこなった戦争と日本軍の名誉を回復すべく、南京虐殺はなかった、他所で日本軍が犯したとされる残虐行為は作り話にすぎないと主張する。それに、テレビが日本軍の残虐行為を扱うことはほとんどないし、新聞雑誌でも歴史修正主義派が優位にある。さらに悪いことに、かれらは歴史修正主義的な新しい中学歴史教科書の執筆を鼓舞し、中国や韓国世論の激しい反発を呼び起こしている。

 日本が1930年代と1940年代の戦争犯罪の事実を認め、その責任を取り、犠牲者が受けた被害に対して可能な限り償いを実行することは、いまだに課題として残されている。

(1) 日本はこれに先立つ戦争により欧米諸国の支持の下に朝鮮と台湾を植民地とし、さらに中国東北部、西太平洋諸島に利権を獲得した。次いで1931年に故意に引き起こした事件により、満州を占領した。そして翌年、日本保護下の新たな「かいらい国」たる満州国を作り、そのトップに満州王朝の最後の末裔たる溥儀を据えた。
(2) 1925年に採択された同議定書は、窒息性ガス、毒ガス、またこれらに類するガスの使用を禁止するものであった。1993年1月13日に、使用のみならず製造も禁止し、拡散防止のための仕組みをも含めた化学兵器禁止条約がようやく調印された。
(3) 日本は1929年のジュネーヴ条約に調印したが、批准はしなかった。
(4) 南太平洋ソロモン諸島にある面積6500平方キロメートルの同島は、1942年8月から1943年2月にかけ、日本とアメリカの対決の大きな焦点となり、アメリカが真珠湾以後初の勝利を収めた。
(5) 1972年9月29日、中国と日本は外交関係を回復する。

ル・モンド・ディプロマティーク発行の隔月雑誌『マニエール・ド・ヴォワール』82号「隠蔽された歴史のページ」特集(2005年8-9月)掲載論文。日本語原稿をヴィアート・クロエが仏訳、日本語版掲載にあたり著者に校正いただいた。

(2005年8月号)


第七段落「戦後の多くの在日朝鮮人はこのときに連行された人々である。かれらは」を著者の指示により「植民地支配による収奪の結果、日本に渡航し、戦後も日本に残った朝鮮人は、」に訂正(2005年8月31日)


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