【ねこまたぎ通信】

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 2人のウゴ・チャベス

2人のウゴ・チャベス

ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel Garcia Marquez
コロンビアの作家、1982年ノーベル文学賞受賞
訳・渡部由紀子


 1998年、ベネズエラ大統領選で華々しい勝利を収めたウゴ・チャベス隊長は、大規模な一連の政治改革に着手した。国会は解散され、新憲法国民投票で承認された。彼は相変わらずの高支持率を誇り、2000年7月30日に新憲法の下で行われた選挙で、ためらうことなく残りの任期を国民の審判に委ねたほどであった。しかしチャベス大統領は、石油収入が大幅に伸びているにもかかわらず、憂慮すべき状態にある経済、社会状況を立て直すには至っていない。彼は次第に政治的に孤立を深めていると見られており、その大衆迎合政治が、いずれ独裁に変わるのではないかとの見方も強まっている。[訳出]


 その日の夕暮れ時、スイスのダヴォスから帰国したペレス大統領は、飛行機を降りた途端、国防大臣のオチョア将軍の出迎えに意表を突かれた。不審に思った大統領は、「何があったのだ?」と詰問した。大臣がたくみに取り繕って安心させたため、大統領は首都カラカスの中心にあるミラフローレス宮(大統領府)には行かず、ラ・カサナの自邸に帰った。そこでまどろみかけていると、先ほどの大臣からの電話で起こされ、マラカイ市の方で軍の反乱が発生したことを知らされた。ミラフローレス宮に戻った矢先、ペレスの耳に最初の砲撃の音がとどろいた。

 それは1992年2月4日のことだった。ウゴ・チャベス=フリアス隊長は、歴史上の事件に対する偏愛から、ラ・プラニシエ歴史博物館の敷地内に司令部をあつらえ、そこから反乱を指揮していた。国民の支持だけが頼みの綱であることを察知した大統領は、テレビ局のスタジオにたどり着き、国民に向けて語りかけた。2時間後、クーデタは不発に終わった。チャベスは投降の条件として、自分にも国民に語りかける場を用意するように求めた。

 若きクリオーリョの隊長は、落下傘部隊の赤いベレー帽をかぶり、見事な弁舌家ぶりを示しながら、事件の全責任は自分にあると言い切った。このテレビ演説は、ひとつの政治的勝利であった。チャベスカルデラ大統領により特赦を受けるまで、刑務所で2年を送った。しかし、支持者の多くは(また敵対者の多くも)、この敗北の演説を選挙運動の第一声のごとく聞いた。そして1999年、チャベスは共和国大統領の座を獲得した。

 チャベス大統領がこれを私に語ったのは、数週間前のことである。私たちは、ハバナからカラカスへ向かうベネズエラ空軍機の中にいた。その3日前、キューバカストロ国家評議会議長とコロンビアのパストラーナ大統領とともにハバナで会合したのが、チャベスとの初めての顔合わせとなった。私が真っ先に感じたのは、彼の強靭な肉体から放たれる力であった。彼にはまた、いかにも自然な親しみやすさと、生粋のベネズエラ人に特有のクリオーリョらしい気品があった。私たちはハバナにいる間に再会を試みたが、スケジュールの折り合いがつかなかった。そこで、カラカスに向かう飛行機の中で、ようやく彼の活動や計画について語り合うことができたのだ。

 それは、眠っていた私のジャーナリスト魂を呼び覚ますような、実りの多い体験だった。彼が半生を語るのを聞いていると、マスコミが言うような独裁者の印象は微塵も感じられない。そこにいたのは、もう一人のチャベスだった。一体どちらが本物だったのだろう。

 策謀家、クーデタ首謀者としてのチャベスの過去は、1998年の選挙運動の際、対立候補陣営によって大々的に喧伝された。しかし、ベネズエラ史を振り返れば、少なくとも4人は同類がいる。第一に、その評価が正しいかはともかくとして、ベネズエラ民主主義の父とされるベタンクールがいる。彼はアンガリータ政権を倒したが、そのアンガリータも、36年間におよぶゴメスの独裁を一掃しようとした民主派の軍人であった。ベタンクールの次に大統領となった作家のガジェゴスはペレス=ヒメネス将軍に倒され、ペレス=ヒメネスは実質的に11年間にわたってベネズエラに君臨した。その彼も、若い世代の民主派に取って代わられることになる。ペレス=ヒメネス政権に続く一時期が、これまでの史上で最長の大統領民選時代であった。

 1992年2月のクーデタは、チャベス隊長が企てて失敗した唯一の出来事であったらしい。しかし、彼はそれも神の御心だったと考えている。1954年7月28日、力の印である獅子座の星の下にバリナス州サバネタで生を受けて以来、彼の行動にひらめきを与えてきた不思議な霊感から生まれるもの、つまり運命は、そのように受け止められてきたのだ。敬虔なカトリックであるチャベスは、自分の幸運を、100年以上も前から伝わるお守りを子供のころから首に掛けてきたおかげだと信じている。母方の曾祖父で、彼にとっては守護の英雄の一人、ペドロ・ペレス=デルガド隊長の形見である。

 小学校教師だった両親の収入だけでは生活が苦しかったため、彼は9歳のころから道端で菓子や果物を売って、両親を助けなければならなかった。時折、ロバに乗って、母方の叔母の住む隣村ロス・ラストロホスに行くことがあった。そこは彼にとって、本物の町だった。日が暮れても2時間は電灯をともしてくれる小さな発電所があり、彼と4人の兄弟を取り上げた産婆もいたからだ。母親は息子が神父になることを望んでいたが、本人は聖歌隊の一員で終わった。教会の鐘の鳴らし方は見事で、村の人々はそれを聞いて、「ほら、あの鐘はウゴだよ」と言ったものだった。ある日、チャベスは母親の本の中から、開運百科を見つけ出した。その第1章「人生でいかにして成功するか」が、すぐさま彼を惹きつけた。

 そこには、さまざまな職業がずらりと並んでいた。そしてチャベスは、そのほぼすべてを試してみた。絵描きとしてはミケランジェロダヴィドを崇拝し、12歳の時、地方のコンクールで一等賞に輝いた。音楽ではギターの腕前と見事な声を生かし、誕生日会やセレナーデに欠かせない存在となった。野球では名捕手だった。軍人という項目は本には書かれていなかった。彼自身、野球の名門チームに入りたければバリナスの士官学校に入るのが一番だと聞かなければ、軍人になろうとは決して思わなかっただろう。

 チャベスはそこで政治学を学び、マルクス主義からレーニン主義までの歴史を知った。そして、彼のもっとも偉大な「獅子」となるシモン・ボリバル(1)の生涯とその著作に夢中になり、ボリバルの演説はすべて暗唱できるまでになった。最初にぶつかった現実の政治は、1973年9月のアジェンデの死であった。チリ国民がアジェンデを大統領に選んだというのに、なぜ国軍が彼を倒さなければならないのか、チャベスには理解できなかった。それから間もなく、チャベスは上官から、共産主義者ではないかと疑われていたホセ=ビセンテ・ランヘルの息子の監視を命じられた。「人生は驚きに満ちている」と、チャベスは高らかに笑った。「今は、彼の父親が私の下で外相を務めているんですから」

 運命のいたずらはほかにもあった。チャベスの軍歴の最後を飾る将校用サーベルを授与したのはペレス大統領だったが、20年後に転覆を試みた相手もまた、同じペレス大統領であった。「しかも、彼を殺しかねなかった」と私が言うと、彼は「それは絶対にない」と否定した。「我々が企てたのは憲法制定議会を設置することで、目的を達したら兵舎に戻るつもりでした」

英雄崇拝
 初めて会ったときから、私は彼が生まれながらの語り手であることに気付いていた。彼はまさしく、創造力と詩情に富んだベネズエラの大衆文化の落とし子である。流れをつかむ素晴らしい感覚と、ほとんど人間技とも思えない記憶力を備え、ネルーダやホイットマンの詩は全編、ガジェゴスの作品をまるごと何頁も暗唱してのける。
 ごく幼いころ、チャベスは偶然、曾祖父が母の言うような辻強盗ではなく、ゴメス大統領時代の伝説的な勇士であったことを知った。彼は曾祖父の汚名を晴らそうとの情熱に燃え、伝記を書こうと心に決めた。古文書館や軍の図書館で史料をあさり、生存者の証言にもとづいて曾祖父の足跡を再現しようと、歴史研究家の道具一式をかついで地域一帯を歩き回った。その結果、彼は曾祖父を自分の英雄に加え、そのお守りを首に掛けることにしたのだった。

 ある日、調査に没頭していたチャベスは、うっかり国境のアラウカ橋を越えてしまった。コロンビアの国境警備隊長が彼の荷物を改めると、スパイとしか思えない道具がぞろぞろと出てきた。カメラにテープレコーダー、秘密文書、周辺地域の図面、軍用の図表入り地図、それに軍用拳銃2丁。身分証明書もあったが、スパイなら偽造の可能性が大いにある。

 押し問答が何時間も続いた。その事務所には、馬上のボリバルの絵が掲げられていた。「私はもうげっそりでした」とチャベスは振り返る。「説明すればするほど、相手は聞く耳を持たなくなっていくんですから」。そのとき、起死回生のアイデアがひらめいた。「考えてみてください、隊長。わずか1世紀前には、我々の軍隊は1つでした。こちらを見ているあの絵の人物は、我々2人に共通の首領だったのです。どうして私がスパイのはずがありますか」。隊長はこれに心を動かされ、大コロンビア共和国の礼賛を始めた。結局その晩は、2人そろってアラウカの居酒屋に行き、互いの国のビールを飲み明かしたのだった。翌朝になると、ともに頭痛に耐えながら、隊長はチャベスに歴史研究の道具一式を返し、2人は国境に架かる橋の途上で長い抱擁をかわして別れを告げた。

 「ベネズエラがどこかおかしくなっていることを悟り始めたのは、そのころでしたね」とチャベスは言った。彼は反政府ゲリラの最後の砦を始末するため、東部地方で兵士13人と通信部隊から成る小隊の隊長に任命された。ある大雨の夜、情報局の大佐と何人かの偵察部隊の兵士が、青ざめて痩せこけた数人のゲリラ兵らしき男を連れて、兵舎に泊めてくれと言ってきた。10時ごろ、チャベスがうとうとし始めていると、隣室から凄まじい悲鳴が聞こえた。「跡が残らないように布きれを巻いたバットを使い、兵士が捕虜たちを叩きのめしていたのです」。憤慨したチャベスは、捕虜を引き渡すか、さもなければただちに兵舎を出て行くよう大佐に命じた。「翌日、彼らは不服従の罪で軍事法廷にかけると脅してきたが、しばらくの間、監視を付けられただけで済みましたよ」

 数日後、チャベスはさらに辛い体験をした。兵舎の庭に軍のヘリコプターが、ゲリラ兵の待ち伏せに遭い重傷を負った兵士たちを乗せて着陸した。チャベスは、何発もの弾丸を浴びた1人の若い兵士を抱きかかえた。すっかり怯えきって、「見捨てないでください、中尉殿・・・」と訴えている。その兵士を輸送車に乗せるのがやっとだった。他の7人は助からなかった。その夜、チャベスはハンモックの上で自問した。「自分はここで何をやっているのだ。一方では軍服を着た農民がゲリラ兵となった農民を拷問にかけ、もう一方ではゲリラ兵となった農民が軍服を着た農民を殺している。戦争が終わった今、撃ち合いをする意味などもはや何もないのに」。カラカスに向かう飛行機の中でチャベスは言った。「それが私の最初の実存的危機でした」

 事件の翌朝、目を覚ましたチャベスは、何らかの運動を興すべき運命を確信した。それを実行に移したのは23歳の時であった。「ベネズエラ人民ボリバル軍」という名前からして堂に入っている。創設メンバーは、5人の兵士と、当時少尉だったチャベスである。「目的は?」と私は尋ねた。彼はきわめて簡潔に、「いざというときに備えること」だったと答えた。1年後、マラカイの装甲大隊で落下傘部隊の将校となったチャベスは、本気で謀議を開始した。しかし、「謀議」という言葉はあくまで比喩的に、共通の目的に向けて意気を上げる意味で使ったものなのだという。

カラカスの暴動
 これが1982年12月17日の状況だった。その日、チャベスの人生にとって決定的な、思いがけない出来事が起こった。落下傘部隊第2連隊長と情報局の将校を兼務していた彼は、意外なことに、マンリケ司令官から1200人の将兵の前で演説するように求められたのだ。午後1時、一個大隊がサッカー場に集まると、司会者がチャベスを促した。彼が1枚の紙も持たずに登壇するのを見て、「君の演説は?」と司令官は尋ねた。「書いたものはありません」とチャベスは答え、即興で語り始めた。ボリバルとマルティ(2)の言葉に着想を得た短い演説だったが、そこには、独立後200年を経たラテンアメリカにおける不正義に関する彼独自の考察が加えられていた。
 集まった将校たちは、無表情に聞いていた。彼の運動を好意的に見ていたフェリペ・アコスタ=カルレとヘスス・ウルダネタ=エルナンデスもいた。チャベスの演説にたいそう不満だった司令官は、聞こえよがしに非難を投げつけた。「チャベス、君はまるで政治屋みたいだな」。すると、身の丈2メートルのアコスタが司令官に近づいて言った。「それは違います、司令官殿。チャベス政治屋などではなく、新しい世代の指揮官なのです。腐った権力者が彼の話を聞けば、震え上がってズボンの中で糞をちびることでしょう」

 その後、チャベスはアコスタ、ウルダネタ両隊長とともに馬にまたがり、10キロ離れたサマン・デル・ゲレに向かった。3人はそこで、シモン・ボリバルがアヴェンチーノの丘で行った厳かな誓いをまねた。「もちろん、最後のところは少し変えましたがね」とチャベスは言う。「スペイン権力の意志により我々を締め付ける鎖を打ち砕いた暁には」と言う代わりに、「権力者の意志により我々を締め付け、人民を締め付ける鎖を打ち砕くまでは」と誓い合ったのである。

 以後、彼らの秘密運動に加わる将校は、必ずこの誓いを立てることとされた。何年にもわたり、彼らは国中の軍人の代表を集めて隠密の会議を開いた。「秘密の場所で2日間の会合を持ち、国の現状を検討し、分析を行い、友好的な市民グループと連絡を取りました。10年間で5回の会議を探知されずに成功させましたよ」

 チャベス隊長の人生でもっとも重要な事件となるのは、1989年2月に首都カラカスで荒れ狂い、「カラカソ」と呼ばれた民衆暴動であった。彼がよく口にする言葉に、「ナポレオンいわく、参謀の1秒のひらめきが勝敗を決する」というのがある。この発想に立って、チャベスは3つのコンセプトを展開した。歴史は時間単位、戦略は分刻み、戦術は秒速で決する。

 この悲惨な事件が起こったとき、彼らはその準備ができていなかった。チャベスは認める。「いかにも、我々は分刻みの戦略に不意打ちを食らってしまったのです」。それは1989年2月27日の暴動、「カラカソ」を指している。高い支持率で選出されたペレス新大統領の就任から20日前後で、これほど激しい反乱が起ころうとは、とても考えられなかった。「27日の晩、博士課程の講義を受けに大学に向かう途中、ちょっとガソリンを入れようとティウラの兵舎に立ち寄ったんです」。チャベスが語り始めたとき、私たちの飛行機はあと数分でカラカスに着陸しようとしていた。「そうしたら、部隊が次々と出動しているじゃありませんか。大佐がいたので、『あの兵士たちはどこに向かっているのですか』と尋ねましたよ。訓練も受けず、まして市街戦なんて考えたこともない補給部隊の人間まで駆り出されてましたから。自分の銃でさえ恐がるような新兵たちですよ。そりゃ、大佐に尋ねますよ。『いったいどこに向かっているのですか』って。大佐は言いました。『街路を制圧する。なんとしても騒動を止めろと命令を受けた。それを遂行するのだ』。私は言いました。『しかし大佐殿、それでどうなるか、おわかりでしょうに』。彼は答えました。『いいか、チャベス、これは命令だ。どうすることもできない。運を天に任せるのみだ』」

 チャベスはその夜、風疹の発作でひどい熱があったと言う。彼が車を発進させると、小柄な兵士が1人、頭のヘルメットは斜めにずれて、銃もぐらぐらで弾薬を地面に落としながら走って来るのが見えた。「私は車を停め、彼に声を掛けました」。チャベスは語る。「彼はすっかり興奮し、汗だくで乗り込んできましてね。18歳の青年でした。『どこに向かって走っていたんだ』と聞くと、『自分の部隊が行ってしまったんです。あのトラック、どんどん遠くなってしまう。お願いです少佐、追いついてください』。そこで私はトラックに追いつき、将校に尋ねました。『どこに向かっているんですか』。返事はこうです。『知りません。だれも知りません!』」

 チャベスは一息ついた。彼の口調はうわずり、あの凄惨な一夜の苦悩に喘いでいた。「パニック状態の兵士が、銃と500発の弾を持たされて、道に放り出されたんですよ。もう、動くものを見ればとにかく発砲で、道も、スラム街も、下町も、砲弾の雨です。大惨事でした。死者は数千人。その中に、フェリペ・アコスタがいました。私は本能的に、奴らが彼をはめて殺したと考えましたよ」。チャベスはきっぱりと言った。「我々が待ち構えていた行動の瞬間が来たのです」。3年後に失敗することになるクーデタの準備は、この瞬間に開始された。

 飛行機は午前3時ごろ、カラカスに着陸した。私は窓から、この忘れ難い町の灯火の海を見ていた。大統領は、カリブ式の抱擁とともに、私に別れを告げた。正装した護衛兵に囲まれて遠ざかる彼を見ながら、私は2人のまったく違った男との旅と会話を楽しんだような、奇妙な感覚に襲われた。1人は、国を救う機会に何度もめぐり合わせる強運な男。そしてもう1人は、新たな独裁者として歴史に残るかもしれない詐術師である。

(1) ラテンアメリカ独立の英雄。1819年、現在のベネズエラ、コロンビア(およびパナマ)、エクアドルコロンビア共和国(のちの大コロンビア共和国)を築いた。
(2) ホセ・マルティはキューバの詩人で、19世紀末に独立運動を指導。

(2000年8月号)
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